第9話 故郷への逃避
昼過ぎ、ローカル線のディーゼル車が、たったひとりの乗客である私を「舞別」という小さな駅に降ろした。
カタン、と乾いた音を立ててドアが閉まり、列車は軽やかに息をつくようにして視界から消えていく。
ホームに取り残された私を、日高の山々から吹き下ろす冷たい風が迎えた。夏の気配はもうどこにもなく、薄手のシャツ一枚の肩を、思わず両手で抱きしめる。
ここが、私の故郷。
騎手になるという夢だけを胸に飛び出してから、もう四年近くが過ぎていた。
――そして今、騎乗停止処分という、最も惨めな形で私はこの地に戻ってきた。
誰にも告げずに。ただ、翔のあの鋭い言葉と、空っぽの馬房の光景から逃げるように。
駅前の寂れた商店街をあてもなく歩く。シャッターの下りた店が多い中、子どもの頃の記憶を呼び起こすような店構えがまだいくつか残っている。
小銭を握りしめて駆け込んだ駄菓子屋。
中学の帰り道、サッカー部の友達とコロッケを頬張った精肉店。
――変わらない風景が、今の私の荒んだ心には、あまりにも眩しく、そして痛かった。
「……あれ? もしかして、エマちゃん?」
不意に背後から声をかけられ、胸の奥が氷水を浴びたように縮みあがる。
振り返ると、高校の同級生・美咲が立っていた。地元の役場に就職したと風の噂で聞いていた彼女だ。
「やっぱりエマちゃんだ! 久しぶり! テレビで見てるよー! すごいね、本当に騎手になっちゃうなんて!」
屈託のない笑顔。その悪意のない賞賛が、今の私には何よりも辛かった。
「う、うん……久しぶり」
「どうしたの? こんなところで。お休み?」
「あ、うん。まあ、ちょっと……」
私が言葉を濁しても、彼女は気づく様子もなく、興奮したまま続けた。
「ねえ聞いて! 私、来月、友達と東京に遊びに行くんだ。でね、東京競馬場に行こうって話してるの! エマちゃんの応援できるかも!」
「……え」
「頑張ってね! 町のみんな、応援してるんだから! 地元の星だよ!」
――応援してる。地元の星。
違う。私はそんな存在じゃない。
私は、みんなの期待を裏切った。一頭の馬の未来を、この手で潰した。最低の、落伍者だ。
「……ご、ごめん。ちょっと、急いでるから!」
「あ、うん……」
戸惑う美咲を振り切るように、私は走り出した。
背中に突き刺さる「頑張ってね!」という声が、いつまでも耳から離れなかった。
***
息を切らしながら走り続け、気づけば私の足は、見慣れた一本道へと向かっていた。
高辻牧場へと続く、ミズナラの木のトンネル。
来るつもりはなかった。いや、来てはいけない場所だと思っていた。
友梨佳さんに、牧場のみんなに、合わせる顔なんてない。
なのに、私の体は、まるで磁石に引かれるように、あの場所を求めていた。
牧場の入り口を示す古びた木製の看板が見えてくる。
私はその手前で足を止め、大きく深呼吸した。中には入らない。
ただ、外から見るだけ。それだけなら、許されるはずだ。
放牧地の柵に沿って、ゆっくり歩く。
広大な緑の絨毯の上で、数頭の馬がのんびりと草を食んでいる。
その中には、今年生まれたばかりだろうか、母馬に寄り添う可愛らしい仔馬の姿もあった。
――新しい命。ここで生まれ、たくさんの愛情を注がれて育っていく。
キタノアカリも、きっとそうだったのだろう。あの優しい瞳は、ここで受けた愛の証だった。
その未来を、私が……。
こみ上げてくる罪悪感に、胸が張り裂けそうになる。
どれくらい歩いただろう。牧場の奥にある馬場のほうから、微かに人の声が聞こえてきた。
私は、吸い寄せられるように、そちらへ向かう。
柵の隙間から、中の様子をそっと窺った。
――そこに、彼女はいた。




