第8話 訪問者
騎乗停止処分が下されてから、三日が経った。
今日は朝から雨が降っている。
湿度が高くなると、昔事故で骨折した右足が疼く。
今日、何回目かのロキソニンを飲んで、私はベッドで右足をさすりながら寝転がる。
私の時間は、完全に止まってしまった。カーテンを閉め切った宿舎の自室は、昼も夜も薄暗い。
散らかった部屋には、コンビニ弁当の容器や菓子パンの袋が、私の罪悪感の塊のように転がっていた。
もう、何もかもどうでもよかった。
騎手、結城エマは、終わったんだ。
高辻牧場のみんなの想いを裏切り、キタノアカリの一生を台無しにし、そして騎手としての最低限の義務である体重管理すら放棄した。
もう、私に馬に乗る資格なんてない。
スマホの電源はずっと切ったままだ。
きっと、調教師や先輩たちから、呆れたような連絡が来ているだろう。
かつて、友梨佳さんにもらった乗馬用の鞭が、ゴミの山の中に埋もれるようにして落ちていた。
それに刻まれた「夢へ」の文字を見るのが、今は辛かった。
友梨佳さんには、何と報告すればいい?
いや、報告なんてできない。彼女の育てた馬を、私がこの手で引導を渡したなんて、口が裂けても言えなかった。
暗闇の中、ただ息をしているだけ。
そんな屍のような私を現実に戻したのは、静かな、ドアのノック音だった。
コン、コン。
無視した。
誰にも会いたくない。私の惨めな姿を、誰にも見られたくなかった。
しばらくの間を置いて、もう一度。今度は、さっきより少しだけ強いノックが響く。
そして、聞き慣れた、抑揚のない低い声がした。
「結城、いるんだろ。開けろ」
風間翔だった。
一番会いたくない相手。私の失敗を、きっと心のどこかで嘲笑っているに違いない天才。
私は毛布を頭まで深く被り、息を潜めた。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るだろう。
しかし、ノックは止まらない。それどころか、少し間を置いて、さらに強く、しつこく続いた。
「結城、開けろ。開けないなら警察を呼ぶ。自殺のおそれがあるってな」
「……」
大きくため息をついた私は、ベッドから重い体を起こし、苛立ちを隠さずにドアへと向かった。
彼は、いつも通りの無表情でそこに立っていた。手には、コンビニの袋を一つぶら下げている。
「……何しに来たの」
私は、自分でも驚くほど棘のある声で言った。笑いに来たのか。それとも、また正論を振りかざして説教でもしに来たのか。
翔は私の敵意を意に介さず、部屋の中をちらりと見ると、わずかに眉をひそめた。
「……ひどいな、この部屋」
「ほっといてよ。あんたには関係ないでしょ」
私がドアを閉めようとすると、彼はそれを手で制し、半ば強引に部屋の中へ入ってきた。
そして、持っていたコンビニの袋を、テーブルの上に無造作に置く。
「これ、食えよ」
袋の中から出てきたのは、スポーツドリンクと、栄養バランスを考えたであろうゼリー飲料、それからプロテインバーだった。
騎手が減量中によく口にするものばかり。
今の私に対する、痛烈な皮肉にしか思えなかった。
「いらない。持って帰って」
「いいから、食え。そんな生活してたら、体が壊れるぞ」
「壊れたっていいじゃない! もうどうでもいいの!」
感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「私なんて、もう騎手失格なんだから! 馬を勝たせることもできず、体重管理もできない! こんなやつ、もう騎手でいる意味なんてない!」
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
彼の前でだけは、絶対に泣きたくなかったのに。
翔は、そんな私をただ黙って見ていた。その目に、軽蔑の色はなかった。
かといって、同情の色もない。ただ、静かに、そこにいるだけだった。
しばらくして、私が少しだけ落ち着きを取り戻すと、彼はぽつり、と呟いた。
「…いつまで、そうしているつもりだ」
「……」
「お前は馬と向き合ってるつもりで、結局、自分の焦りと戦ってただけだろう」
まただ。また、彼は私の核心を突いてくる。
あの日の調教の後と同じ、冷たいけれど、真実の言葉。
「お前、競馬学校の時は誰よりも真摯に馬に向き合ってただろ」
「分かったようなこと、言わないでよ……」
「別に、分かったようなことは言ってない。俺が見たままを言ってるだけだ」
翔は、部屋の隅に転がっていた鞭を拾い上げた。そして、そこに刻まれた文字に、静かに指を滑らせる。
「……いい鞭じゃないか」
「……返して」
「お前は、本当にこのまま終わるのか」
彼の問いに、私は答えることができなかった。
「終わりたくない」という気持ちと、「もう無理だ」という気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
翔は、おもむろに窓へと近づき、閉め切られていたカーテンを勢いよく開けた。
「うっ…!」
いつの間にか雨は止み、雲間から射し込む陽の光に、私は思わず目を細める。
「少しは、外の空気を吸ってこい。腐っちまうぞ」
彼はそれだけ言うと、鞭を私に投げ渡した。
そして、部屋のゴミ袋を一つ手に取り、「これ、捨てといてやる」と呟いた。
「……別に、頼んでない」
「俺がやりたいから、やるだけだ」
彼は私の返事を待たず、いくつかのゴミ袋を片手に部屋を出て行こうとした。
その背中に、私は思わず声をかけていた。
「……なんで」
翔が、ドアの前で足を止める。
「なんで、あんたが、そんなこと……」
彼は、こちらを振り返らなかった。ただ、静かな声で、こう言った。
「……同じ厩舎のやつが、腐っていくのを黙って見てるほど、俺は薄情じゃないんでな」
そして、彼は今度こそ部屋を出て行った。
一人残された部屋に、陽の光が静かに差し込んでいる。
テーブルの上に置かれたスポーツドリンクとゼリー。
彼の不器用な優しさが、冷え切っていた私の心に、ほんの少しだけ、温かい何かを灯したような気がした。




