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第7話 騎乗停止

 レースのリプレイ映像が、瞼の裏で何度も何度も再生される。

 ゲートが開く瞬間の、あの致命的な硬直。

 バランスを崩した私。そして、私をかばうように一瞬ためらったキタノアカリ。

 遥か遠くに霞んで見えたゴール板。


 食事は喉を通らず、眠りは浅い。

 自分の厩舎での仕事も、どこか上の空だった。

 馬の体を洗いながら、キタノアカリの柔らかな芦毛の感触を思い出しては、胸が張り裂けそうになる。


 ――このままではダメだ。


 せめて、あの子に会って、ひと言謝らなければ。

 そうしなければ、私は前に進めない。


 ***


 レースから三日後の午後、私は意を決して、キタノアカリが所属する田中厩舎の扉を叩いた。

 私の所属する厩舎とは違うブロックにあり、場違いな気後れを覚えたが、そんなことを言っている場合ではなかった。


「ごめんください。結城エマです。キタノアカリに、会わせていただけないでしょうか」


 出てきた厩務員は、少し困ったような顔をしたが、無言でうなずき私を中へと通した。


 案内されたのは、厩舎の一番奥にある馬房。

 心臓が、早鐘のように鳴っている。

 どんな顔をして会えばいいだろう。

 きっと、私のことなど見たくもないかもしれない。

 それでも、謝りたかった。


 しかし、馬房の前にたどり着いた瞬間、私は言葉を失った。


 ――空っぽだった。


 きれいに寝藁が片付けられ、飼い葉桶も水桶も空のまま。

 そこにあるのは、ほんの数時間前まで馬がいたという痕跡だけ。

 残り香のような、寂しさだけが漂っていた。


「……え?」


 何が起こったのか理解できず、私はただ立ち尽くした。

 そのとき、背後から声がかかる。


「結城か。どうした?」


 振り返ると、田中調教師が腕を組んで立っていた。


「先生! キタノアカリは……どこに……?」

「ああ、あいつなら今朝、ここを出て行ったよ」

「出て行った……? どこへですか?」

「引退だ。オーナーと相談して、そう決まった」


 引退――その二文字が、重い鉄球のように胃の底へ落ちた。


「そんな……私のせいで……」

「まあ、結果がすべての世界だからな。仕方ない」


 田中先生の声は、淡々としていた。

 それが、この世界の現実そのものだと突きつけてくる。


「行き先は……どこなんですか?」

「ああ、一応、乗馬クラブという話にはなっている」


 その言葉に、私はわずかな光を見出した。

 そうだ、乗馬になるなら、まだ会えるかもしれない。


「どこの乗馬クラブか、教えていただけませんか! 私、どうしてもあの子に会って、謝りたいんです! 勝たせてあげられなかったこと、私のせいで……!」


 食い下がる私を、田中先生は静かな、それでいて憐れむような目で見つめた。


「結城、気持ちは分かる。だが、これだけは覚えておけ。乗馬クラブが、全ての引退馬を最後まで面倒見てくれるわけじゃない」

「……え?」

「多くの馬は、一旦乗馬クラブを経由する。だが、そこから先は、また別の話だ。大抵の場合……用途が変わる」


 用途変更――

 その言葉の意味を理解した瞬間、全身から血の気が引いていくのが分かった。

 競馬界に身を置く者なら誰もが知っている、あの残酷な現実。


「そんな……」

「これが、この世界の宿命だ。一つのレースが、馬の一生を左右する。騎手は、その手綱を握っているんだ。その重みを、お前は忘れるな」


 先生の最後の言葉は、もう耳に届かなかった。

 友梨佳さんが、高辻牧場のみんなが、愛情を込めて育てた、あの優しく繊細な馬。

 私が、その子の未来を奪った。

 勝たせるどころか、引導を、私が渡してしまったのだ。

 自責の念が、黒い津波のように私を飲み込んでいく。


 ――それからの日々は、まるで悪夢だった。


 厩舎作業にも、調教にも、全く身が入らない。

 馬の瞳を見るたびに、キタノアカリの怯えた目がフラッシュバックする。

 翔が何か声をかけてきたような気もするが、何を言われたのかも覚えていない。


 唯一、私を現実から逃避させてくれるものがあった。


 ――食べることだ。


 夜、自室に戻ると、私は冷蔵庫の中のものを手当たり次第に口に詰め込んだ。

 甘い菓子パン、スナック菓子、カップ麺。

 空腹ではない。ただ、口の中に何かを入れていないと、罪悪感で押し潰されそうになる。

 咀嚼している間だけ、何も考えずに済んだ。


 当然、騎手として最も大切な体重管理は、破綻した。


 金曜日の午後、調整ルームで騎手たちが次々と計量器に乗っていく。

 私は、自分の番が来るのが怖かった。

 ここ数日、体重計に乗っていない。


 覚悟を決めて計量器に立った瞬間、表示された数字を見て目の前が真っ暗になった。

 ――規定体重を、3キロも上回っていた。

 これでは、もうどうすることもできない。


 結局、翌日に騎乗予定だった馬は、すべて乗り替わりになった。


 そして、月曜日の夕方。

 私はJRAの裁決委員に呼び出され、正式な処分を言い渡された。


「結城エマ騎手は、体重調整に失敗したため、過怠金十万円を科し、本日から十日間の騎乗停止処分とする」


 冷たい宣告の言葉が、がらんとした部屋に響き渡った。


 ――私は、騎手として、完全に信頼を失った。

 もう、誰の想いも背負う資格なんてない。

 あの日の、空っぽの馬房の光景が、再び私の心を支配していた。


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