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第6話 砕け散った蹄音

 ゲート裏の輪乗り。

 本番前に各馬が気合いを整える中、キタノアカリの落ち着きのなさは最高潮に達していた。

 小刻みにステップを踏み、首を何度も上下させる。

 その焦燥は鞍を通じてダイレクトに私に伝わり、私の心臓の鼓動をさらに速めていく。


「落ち着いて、アカリ……大丈夫だから」


 そう囁きながら首筋を撫でる私の指先が、自分でも分かるほど冷たく硬直していた。

 言葉とは裏腹に、私の呼吸は浅く、震えている。


 ファンファーレが鳴り響き、スタンドから大きな拍手が湧いた。

 その音が、決戦の号砲だった。


「さあ、行こう……」


 係員に促され、私たちはゲートへと向かう。

 一歩、また一歩、処刑台に向かうような重い足取り。

 キタノアカリはゲートを嫌がり、一度、二度と横を向いて抵抗した。

 そのたびに、私の心臓は氷水で締め付けられるように痛んだ。


 ようやく馬体をゲートの中へ滑り込ませる。

 ガシャン、と後扉が閉まる金属音がやけに大きく響く。

 狭い鉄の檻の中、私とキタノアカリは完全に閉じ込められた。

 ここからもう、逃げることはできない。

 翔の言葉が、脳内で警報のように鳴り響く。


『ゲートの中では絶対に力むな。お前の焦りが馬に伝われば、すべてが終わる』


 分かっている。頭では、痛いほど分かっている。

 だが体が言うことを聞かない。

 鐙を踏む足に、手綱を握る両腕に、自分のものではないような硬い力が入っていくのが分かった。


 静寂――

 あれほど騒がしかった競馬場が、嘘のように静まり返っている。

 隣の馬の荒い息遣いと、私の心臓の音だけが耳に響く。

 キタノアカリの体が、小刻みに震えていた。

 その震えが、まるで私自身の震えのように思えた。


 前扉の向こうに見える緑のターフ、その先にあるゴール板。

 あそこへ、誰よりも早くたどり着かなければ――。

 高辻牧場のみんなの顔が浮かぶ。

 私の夢は、私だけのものじゃない。

 たくさんの人の想いを背負っている。

 裏切るわけには、絶対にいかない。


「……絶対に、勝つ」


 その思いが頂点に達した瞬間、キタノアカリがゲートの中で大きく身じろぎした。

 ガタン、と鉄の枠を蹴る音が響く。

 まずい、集中できていない。

 その直後――


 ガシャン!!


 けたたましい音とともに、目の前の扉が開いた。

 世界が、一斉に動き出す。


「行けっ!!」


 私は、ほとんど絶叫に近い声を上げながら、馬体を前に押し出そうとした。

 だがその瞬間、私の体は致命的なまでに力みきっていた。

 スタートの衝撃に備えようと、鐙を強く踏みしめ、手綱を握りしめた腕が完全に固まっていたのだ。


 馬が前に飛び出そうとする力と、私の固まった体がそれを抑えつけようとする力が、正面から衝突した。


 ぐらり、と私の体が大きく傾く。


「あっ……!」


 バランスを崩した私を支えようと、キタノアカリは一瞬、前に出すはずだった脚を地面に踏みとどまらせた。

 そのコンマ数秒のロスが、全てだった。


 ようやく前に進み始めたとき、他の15頭はすでに遥か前方を走っていた。


 ――出遅れ。


 それも絶望的としか言いようのない、致命的な出遅れだった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 頭が真っ白になる。


「……嘘」


 誰のものでもない呟きが、ヘルメットの中で響いた。

 目の前には、遠ざかっていく馬群の砂煙だけがある。

 スタンドからの、大きなどよめきと悲鳴が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。


「追え!追わなきゃ……!」


 我に返った私は、鬼の形相で手綱をしごいた。


「行け! 行け! 行けぇぇぇ!!」


 キタノアカリは、私の狂気じみた檄に応え、必死に脚を動かしてくれた。

 だが、一度失ったリズムは、そう簡単には取り戻せない。

 レースの流れから完全に取り残され、ただ一頭、ポツンと最後方を追走するだけ。

 その姿は、あまりにも惨めだった。


 コーナーを回るたびに、絶望がじわじわと心を支配していく。

 直線に入っても、前との差はまったく縮まらない。むしろ、開いていく一方だ。

 ゴール板が、憎らしいほどはっきりと見えた。

 その向こうで、勝った馬の騎手が労うように馬の首筋をなでる。

 その光景が、スローモーションのように見えた。


 結局、私たちは、先頭から遥か遠く離された殿しんがりでゴールした。

 荒い息を繰り返すキタノアカリの背中の上で、私は呆然とまたがっていることしかできなかった。


 検量室前に引き返していく、長い長い道のり。

 罵声が飛んでくるかもしれない。

 そう覚悟していたが、スタンドのファンは、ただ黙って私たちを見ているだけだった。

 その無言の視線が、どんな罵声よりも鋭く、私の心を突き刺した。


「……ごめん。……本当に、ごめん」


 汗でびっしょりになったキタノアカリの首筋に顔を埋め、私は誰にともなく謝り続けた。

 高辻牧場のみんなの顔も、友梨佳さんの顔も、もう思い出すことすらできなかった。


 私の、たったひとつの致命的なミスが、たくさんの人の想いと、一頭の馬の未来を、粉々に砕いてしまった。


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