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第5話 気負いと重圧

 9月の中山競馬場。

 夏の名残をかすかに運ぶ、乾いた風がスタンドをすり抜けていく。


 レース当日の朝。

 私は誰よりも早く、調整ルームで目を覚ました。

 アラームが鳴るよりずっと前。

 それは不安からではなかった。むしろ高揚感に胸が熱くて、じっとしていられなかったのだ。


 ――早く、キタノアカリに会いたい。


 その一心で、私はベッドから飛び起きた。


 先週、初めてキタノアカリの調教に跨った時の感触が、まだ手のひらに残っている。

 小柄で繊細そうなシルエットの奥に、しなやかで底知れぬエンジンを秘めた馬。

 私の拙い合図にもすぐに反応し、直線では軽く促しただけで、弾丸のような伸び脚を見せてくれた。


 ――この馬は、本物だ。


 あの瞬間、確信に近いものが胸に宿った。 


 ***


 中山競馬場の騎手ロッカールーム。

 キタノアカリの勝負服に腕を通すと、私は自分の頬をパシンと叩いた。


「見てて、友梨佳さん……私、今日、絶対に勝つから」


 それは誓いであると同時に、逃げ道を断つ呪文だった。


 前検量を終え、パドックの控え室へ向かう通路を歩いていると、前から見慣れた背の高い影が現れた。

 風間翔――彼の目は、いつものように私を見透かすように鋭い。


「結城」


 短く名前を呼ばれただけで、胸の奥がざわつく。

 すれ違いざま、彼が足を止めた。


「……気負いすぎるなよ」


「大丈夫。調教の感触も良かったし……今日は絶対に勝つから」


 自分でも驚くほど、声が張りつめていた。

 翔は眉をひそめ、静かに言葉を継いだ。


「調教とレースは別物だ。それに、キタノアカリはスタートで少し浮き上がる癖がある。ゲートの中では絶対に力むな。お前の焦りが馬に伝われば、すべてが終わる。慎重すぎるくらいでいい」


 それは、彼が私のために映像を研究し、分析してくれたからこそ出てくる的確な忠告だった。

 頭では分かっている。感謝すべきだ、と。

 だが今の私には、その言葉が「お前は失敗するかもしれない」という宣告のように響いてしまう。


「分かってる。何度もシミュレーションしたから」


 私はそれだけを返し、彼の横を通り過ぎた。

 背中に突き刺さる懸念の視線を、無理やり振り切るように。


 ***


 パドックの光の中に、キタノアカリはいた。

 1番人気を示す電光掲示板と、ファンの熱気。

 無数のレンズ、期待と興奮に染まる視線。

 その圧に押されてか、キタノアカリは少し落ち着きなく周回していた。

 調教のときの穏やかな瞳は、いまは微かに揺らいでいる。


「結城、頼んだぞ。この馬を信じて、落ち着いて乗ってくれ」


 田中調教師が私の肩を軽く叩く。


「はい!任せてください!」


 返事だけは、誰よりも威勢が良かった。


 しかし、跨った瞬間、キタノアカリの体がびくりと震えるのが、鞍越しにはっきり伝わってきた。

 まずい。私の胸の奥の緊張が、気迫が、彼女を怯えさせている。

 調教の時とは明らかに違う。

 背中は硬直し、耳は小刻みに動き、私の指示を探るように不安定に揺れている。


 本馬場へ出た瞬間、大きな拍手と歓声がさらに私の神経を刺激した。

 アドレナリンが全身を駆け巡り、視界がチカチカする。


 返し馬――馬体をほぐし、呼吸を整える大切な時間。

 だが、私の心はとっくにレース本番へ飛んでいた。


「行くよ、アカリ……!」


 気持ちが逸り、手綱を握る手に無意識の力がこもる。

 馬はその硬さに反発し、頭を上げ、前に進もうとしない。

 左右に体を揺らし、私の指示に抗う。

 チグハグな動き。

 人馬一体には程遠く、まるで私一人が馬上で暴れているかのようだった。


 ゲート裏に誘導したときには、キタノアカリの首筋はすでに汗でびっしょりと濡れていた。


「大丈夫……大丈夫だから」


 私は自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。

 もはやそれは馬を落ち着かせるためではなく、暴走しそうな自分を繋ぎ止めるための、空虚な呪文だった。


 翔の「ゲートの中では力むな」というアドバイスが、一瞬だけ脳裏をかすめる。

 だがその言葉すら、次の瞬間には「絶対に失敗できない」という巨大なプレッシャーに変換されてしまった。


 ゲートインを待つ間、私の心臓は破裂しそうなほど高鳴っていた。

 この一瞬に、私の騎手生命のすべてがかかっている――

 その重圧が、私から冷静さを、そして馬を思いやる余裕を、根こそぎ奪い去っていった。

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