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第3話 馬と喧嘩しているだけ

 新潟での悪夢のような週末から、わずか二日後の火曜日。

 まだ夜の気配が色濃く残る朝靄のなか、美浦トレーニングセンターは一日の始まりを告げるざわめきに包まれていた。


 蹄鉄がアスファルトを叩く乾いた音、厩務員たちの低く交わす声、馬たちの荒い鼻息──それらすべてが混ざり合い、この場所だけの空気をつくりあげている。


 私は一頭の栗毛馬に跨り、ウッドチップを敷いた調教コースへ向かう。

 今日のパートナーは、次のレースで騎乗予定の2歳馬。

 デビューしたてでキャリアも浅く、気性もまだ幼い。

 こういう馬こそ、乗り手が導かなければならない──頭では痛いほど分かっているのに。


「頼むよ、今日はうまく走ろうね」


 首筋を撫でながら語りかけると、馬は耳をわずかに絞り、私の緊張を嗅ぎ取ったかのように落ち着きなく身じろいだ。

 ダメだ、伝わってしまっている。

 新幹線の中で感じたあの自己嫌悪と焦燥感が、まだ全身にまとわりついて離れない。


 コースに入り、軽いキャンターで馬体をほぐす。

 隣のレーンを、先輩騎手が馬なりのまま楽な手応えで追い抜いていく。その姿が、やけに眩しかった。


「……よし、行こう」


 自分に檄を飛ばし、徐々にペースを上げていく。

 今日のメニューは「終い重点」。


 最後の1ハロンでしっかり脚を伸ばすよう指示が出ていた。


 バックストレッチを抜け、コーナーへ差し掛かる。

 馬は行きたがって首を伸ばし、手綱を引く腕に力が入る。ここで抑えなければ、直線で脚が残らない。


「待て、まだ……!」


 私はグッと手綱を引いた──その力は自分でも気づかないほど強すぎた。

 馬は口元に鋭いプレッシャーを感じ、カッと頭を上げる。一瞬でコンタクトが切れ、重心がぐらついた。


 ――まずい。


 何とか体勢を立て直し、直線へ。

 ここだ、と心で叫ぶ。


「行けっ!」


 だが先ほどの抵抗でリズムを崩した馬は、合図に鈍く反応するだけ。

 加速は重く、まるで鎖を引きずっているかのようだ。


「もっと、もっと前へ!」


 焦りばかりが空回りし、手綱を握る腕に余計な力がこもる。

 馬は私の焦燥をますます感じ取り、左右に蛇行しはじめた。呼吸が合わない。完全にちぐはぐだ。


 結局、ゴール板を通過した時計は、指示より1秒以上も遅かった。

 息を切らせて引き上げる私に、時計を見ていた調教助手が渋い顔で「……ちょっと掛かりすぎだな」とだけ告げる。

 その一言が胸を抉った。


 ***


 厩舎に戻り、汗だくの馬を洗い場へ連れていく。

 馬栓棒に手綱を結び、ホースの冷たい水をスポンジに含ませる。

 馬は不満げに鼻を鳴らし、時折こちらを振り返っては、じろりと睨むような目をした。


「……ごめんね。うまく乗ってやれなくて」


 謝っても、もちろん返事はない。

 ただ、その瞳が私の未熟さを責めているように感じられた。

 その時だった。背後から、静かな声が落ちてきた。


「馬の邪魔ばかりしている。もっと馬の声を聞け」


 心臓が跳ねた。

 振り向かなくても分かる。この感情の温度を感じさせない声の主は、風間翔しかいない。


 振り向くと、案の定、彼がそこにいた。

 自分の騎乗馬の世話を終えたばかりらしく、その端正な顔に汗ひとつ浮かんでいない。

 いつもそうだ。彼は涼しい顔で、誰よりも早く仕事を終え、誰よりも結果を出す。

 その完璧さが、今の私には息苦しいほどだった。


「……なに」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。


「見ていられなかった。お前は馬と喧嘩してるだけだ。そんなんじゃ勝てるわけがない」


 淡々とした正論が、ナイフのように胸へ突き刺さる。

 分かってる。直線で呼吸が合わなかったことも、タイムが遅れたことも、全部。

 だが、それを一番言われたくない相手が、この男だった。


「……」

「手綱を引きすぎなんだ。馬が行きたがっているなら、無理に抑えるだけじゃなく、リズムに合わせて宥めてやれ。力ずくじゃ反発するだけだ」


 彼の視線は私ではなく、私が洗っている馬の口元に注がれていた。

 まるで教科書を読み上げるように、的確に私の欠点を指摘していく。


 ──偉大な騎手の父親を持ち、生まれた時からエリート街道を歩いてきたあんたに、何が分かるっていうの。

 どれだけ努力しても届かない場所に、あんたは当たり前のように立っている。

 そんなあんたに、そんな風に言われたくない。


「天才には、私の苦労なんて分からないでしょ!」


 喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。

 代わりに、私は彼に背を向け、黙って馬体を拭き続けた。

 それ以上何も話したくない──私なりの精一杯の抵抗だった。


 私の拒絶を感じ取ったのだろう。翔は何も言わなかった。

 数秒の気まずい沈黙のあと、彼の足音が遠ざかっていく。


 一人になった洗い場に、馬の鼻息と、スポンジから滴る水音だけが響く。

 彼の姿が完全に見えなくなってから、ずっと堪えていたものが、堰を切ったように込み上げてきた。

 視界が滲み、栗毛のたてがみがぼやける。


 ――悔しい。


 指摘されたことが、すべて事実だからこそ、どうしようもなく悔しい。

 惨めさに、涙がにじむ。

 私は、ただ馬と喧嘩していただけ──その事実に打ちのめされるしかなかった。


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