第15話 エピローグ
あの熱狂の土曜日から二日後の月曜日。
美浦トレーニングセンターの朝は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。
だが、私にとっての世界は、明らかに色鮮やかさを増していた。
「結城、ペースが遅い!そんな体力じゃ、馬を追えないぞ!」
「ペース配分を考えながら走ってるのよ!あんたこそ、力みすぎなんじゃない?」
「うるさい!」
朝靄の中、翔と並んでロードコースを走りながら、私たちは子供のように軽口を叩き合った。
数週間前まで、彼の言葉一つ一つに棘を感じていたのが嘘のようだ。
今は、彼の厳しい檄さえも、心地よいエールに聞こえる。
走り込みを終え、二人で並んでストレッチをしていると、私のスマートフォンがポケットの中で震えた。
汗を拭いながら取り出すと、ディスプレイには「主取陽菜」という文字が光っている。
「陽菜さん……?」
友梨佳さんのパートナーで、高校時代から私を知っている。いまは友梨佳さんと一緒に高辻牧場を経営してる。こんな朝早くに、どうしたんだろう。
「もしもし、エマです」
『エマちゃん! おはよう! そして、本当におめでとう!』
電話の向こうから、陽菜さんの明るく張りのある声が響いた。
「陽菜さん、ありがとうございます! レース見ていてくれたんですか!?」
『ええ、もちろん。二人でレースを見てたわよ。友梨佳なんて、ゴール前は泣きながら叫んでて大変だったんだから』
その言葉だけで、胸が熱くなる。
『それでね、本題なんだけど』
陽菜さんの声が、少しだけビジネスのトーンに変わった。
『単刀直入に言うわ。うちで所有している2歳の牝馬がいるんだけど……あなたに乗ってほしくて連絡したの』
「……えっ」
思わず、声が漏れた。
『今度デビューする予定の馬よ。うちの牧場で生まれた、とっておきの子なの。将来的にはG1も狙えると思ってる。その子のデビュー戦を、あなたに任せたい』
高辻牧場の、とっておきの子でG1。
頭が、くらくらした。それは、私が騎手になる時に思い描いた、あまりにも大きな、遠い夢の舞台だった。
「私が……私で、いいんですか……?」
『あなたの、あの騎乗を見たからよ。馬を信じ、馬の力を最大限に引き出す。あの日のあなたは、最高の騎乗をしたわ。だから、お願いしたいの』
震える声で、「乗せて、ください」と答えるのが精一杯だった。
『よかった! じゃあ、詳しいことはまた後で……。あ、それからね……』
陽菜さんがまだ何かを続けようとしていた。
だが、私の耳にはもう届いていなかった。
「ありがとうございます! 失礼します!」
興奮のあまり、私は一方的に電話を切ってしまった。
「すごいじゃないか」
いつの間にか隣に来ていた翔が、私のスマホを持つ手を見つめていた。
「……うん。高辻牧場の、2歳馬に乗せてもらえるって……」
「そうか。よかったな」
彼の声は、いつも通り淡々としていた。
だが、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、優しい色が浮かんでいるように見えた。
「でも、ここからがスタートだろ」
その言葉に、私は顔を上げ、今までで一番の笑顔で、彼を見つめ返した。
「うん、見てて」
そして、人差し指をすっと彼に向ける。
「重賞は、私が最初に勝つから」
私の言葉に、翔は一瞬虚を突かれたように目を見開き、そして、フッと、本当に楽しそうに笑った。
「……面白い。受けて立つ」
ふたりで笑いあった後、翔が一度咳払いをした。
「……あのさ」
「なに?」
「今日の夜、時間あるか?」
「えっ、今日?」
「いや、その……練習終わったあと、飯でもどうかと思って……ほら、頑張ったご褒美っていうか」
ぶっきらぼうな声。耳の先が赤くなっている。
私は吹き出した。
「翔、それってデートのお誘い?」
「ち、違う! だから、ただのお祝いだ!」
「ふふ、分かった。行く」
「じ、じゃあ、決まりな」
彼は目をそらしながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
遠くから、私の名前を呼ぶ声がした。
「エマー!」
ハッとして、声のした方を振り向く。
聞き間違えるはずのない、その声。
厩舎の入り口に一人の女性が立っていた。
澄んだ空のような青い瞳と、陽の光を吸い込んで輝く、真っ白な髪。
「……友梨佳、さん……?」
時間が、止まった。
嘘だ。いるはずがない。彼女は、牧場から滅多に出られないはずだ。
でも、彼女は確かにそこにいて、私に向かって、優しく微笑んでいた。
「……おめでとう、エマ!」
その一言で、私の涙腺は完全に壊れた。
「う…うわああああああ!」
子供のように声を上げて泣きながら、私は彼女に向かって駆け出した。
ずっと、会いたかった。
一番に、この勝利を報告したかった人に。
友梨佳さんは、両腕を広げて、走ってくる私を待っていてくれた。
私は、その腕の中に、思い切り飛び込んだ。
懐かしい牧場の匂いと、彼女の温もりが、私の全身を包み込む。
「よく、頑張ったね」
背中を優しく撫でる彼女の手を感じながら、私はただ、子供のように泣きじゃくった。
そして、泣きながら顔を上げ、私は笑った。
「ねえ、友梨佳さん。ご飯一緒に行こう。沢山話したい事があるの。翔、友梨佳さんも一緒でいいよね?」
いつの間にか横にいた翔が固まった。
「……え、三人で?」
彼はほんの一瞬だけ肩を落とし、それから小さくため息をついた。
「……ま、いっか」
少しだけ目を逸らしながらも、その表情はどこか柔らかい。
「やった!!」
私は、もう一度、友梨佳さんに抱きついた。
私の、長くて暗い夜は、今、完全に明けた。
ここが、私の新しい夜明け。
新しいスタートラインなんだ!
◆◆◆お礼・お願い◆◆◆
最後まで読んで戴きありがとうございました。
続きが気になる!
結城エマと風間翔は付き合うの?
友梨佳、そこは空気読もうよ!
と思ってくださいましたら、
★評価をお願いします。
また、本小説は拙著『海辺の約束〜希望は蹄の音とともに〜』のスピンオフ的な作品です。
友梨佳や陽菜との関係、高辻牧場について気になった方は、拙著『海辺の約束〜希望は蹄の音とともに〜』をお読みいただけると嬉しいです!




