第14話 涙のウィナーズサークル
「…よし、行こう!」
私は馬の気持ちに応えるように、軽く手綱をしごいてGOサインを送る。
最後方近くにいた私たちの体が、大外を回ってぐんぐんと加速していく。
内側の馬たちがごちゃつくのを横目に、私たちは何の抵抗も受けずに前との差を詰めていった。
最後の直線。
横一線に広がった馬群の、一番外に私たちはいた。
目の前には、まだ5、6頭のライバルがいる。ここからだ。
「お願い、もう少しだけ頑張って!」
叫んだ声は、馬の立てる轟音にかき消される。右手に握る鞭を、ただひたすらに振り下ろす。一回、また一回と鞭を入れるたびに、この子もそれに応えて懸命に脚を伸ばしてくれた。
視界の先、ゴール板だけが、遠い幻みたいに揺れている。
もう何も考えられない。
ただ、この腕の中にいるパートナーの力を信じるだけ。
手綱を通じて伝わってくる「まだ走れる」という魂の叫びだけが、私の心を支えていた。
残り200メートル。
内から一頭、すごい脚で伸びてくる馬がいる。並ばれた。
何度も何度も、こういう競り合いで私は負けてきた。
焦り、力み、馬との呼吸がずれて失速する。
その光景が脳裏をよぎる。
『最後まで馬を信じろ!』
翔の叱咤が、まるで今、隣で叫ばれたかのように鮮明に聞こえた。
そうだ、私は一人じゃない。
この子も、一緒に戦ってくれてる。
私はこの子を信じて、もう一度だけ強く鞭を入れた。
すると、一度は並ばれたはずのパートナーが、信じられないような根性で差し返した。
ぐっ、と半馬身だけ前に出る。
いける。勝てる!
ゴール板を駆け抜けた瞬間、周りの音がふっと消えた。
スローモーションになった世界で、遅れてやってきた大歓声が、私の全身を包み込む。
勝った。
本当に、勝ったんだ。
込み上げてくるのは安堵、そしてどうしようもないほどの熱いもの。
視界が涙で滲み、うまく前が見えない。
***
地下馬道を下り、検量室前に引き返してくると、調教師の先生が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「結城! よくやった! 最高の騎乗だったぞ!」
その肩を力強く叩かれ、私はようやく現実に戻った気がした。馬主さんも、厩務員さんも、みんなが笑顔で私を迎えてくれる。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」と、私は何度も、何度も頭を下げた。
涙が、もう止まらない。
その時だった。
祝福してくれる人垣の後ろに、腕を組んで、壁に寄りかかっている翔の姿を見つけた。
私はただまっすぐに、彼の元へ駆け出していた。
驚いたように目を見開く翔。
いつものクールな表情が、私の突進によって崩れていく。
そして、私は、彼の胸に、思い切り飛び込んだ。
ドン、という衝撃。翔の体が、硬直するのが分かった。
「ありがとう……! 翔のおかげ……本当に、ありがとう……!」
周囲の騎手や関係者たちが、驚きと興味の入り混じった目で私たちを見ているのが気配で分かる。
翔は、数秒間、戸惑ったように固まっていたが、やがて、その大きな手が、私のヘルメットの上にぎこちなく、ポン、と置かれた。
「…ああ。よくやった」
その、たった一言の、不器用な労いの言葉が、どんな賛辞よりも、私の心に深く、深く染み渡った。
***
ウィナーズサークルへと向かう道すがら、ファンからの「おめでとう!」という温かい声と、無数の拍手が私を迎えてくれた。
その一つ一つが、私の心に染み渡った。
やがて、小さな表彰台の上で、初勝利騎手へのインタビューが始まった。
マイクを向けられた私は、こみ上げてくる涙を必死にこらえながら、言葉を絞り出した。
「本当に……ここまで、長かったです。勝てない間、たくさんの方にご迷惑とご心配をおかけしました。それでも、見捨てずにチャンスをくださった馬主様、調教師の先生、毎日馬の世話をしてくれる厩舎の皆さん、そして何より、最後まで諦めずに走ってくれたデイブレイクに……心から、感謝しています」
言葉が、途切れる。涙が、もう止められない。
「もう、騎手を辞めようと、何度も思いました。でも……そんな私を、支えてくれた人がいました。その人に、やっと、少しだけ恩返しができた気がします。本当に、ありがとうございました!」
深く、深く頭を下げた。割れるような拍手が、私を包み込んだ。
その時だった。
「エマー! おめでとー!」
ウィナーズサークルの表彰台の後ろから、聞き慣れた声援が飛んできた。
ハッと振り向くと、そこにいたのは、関東に来ていた同期の騎手たちだった。
みんな、自分のことのように笑ってくれている。
その輪の後ろの方に、翔の姿も見えた。
彼は、いつも通りの無表情で、少し離れた場所からこちらを見ている。
セレモニーの進行役である女性プレゼンターが、「祝・初勝利」と書かれたプラカードを持って現れた、その瞬間だった。
翔が、すっと前に出てきた。そして、プレゼンターから無言でそのプラカードを取ると、ゆっくりと私の隣まで歩いてきた。
そして、何も言わずに、私の横に、すっと立った。
カメラのフラッシュが一斉に焚かれる。
隣に立つ彼の横顔は、やっぱり涼しげだった。
でも、その不器用な祝福の形が、どんな言葉よりも、私の胸を熱くした。
「エマちゃん! おめでとう!」
今度は、ウィナーズサークルの柵の向こうから、懐かしい声がした。
見ると、柵の一番前で、高校の同級生の美咲が、満面の笑みで手を振っていた。
「エマちゃん、見てたよ! すっごく、かっこよかった!」
故郷からの、まっすぐな声援。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも精一杯の笑顔を作って、美咲に、同期たちに、そして隣に立つ翔に、何度も、何度も頷いた。




