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第13話 運命のスタート

 騎乗依頼を受けてからレース当日までの一週間は、まるで夢の中にいるようだった。

 一度は全てを失ったはずの私に、再びチャンスが与えられた。

 その事実だけで、胸がいっぱいになる。


 だが、以前のような「勝たなければ」という悲壮な決意は、もう私の心にはなかった。

 勝ちたい。その気持ちは、もちろんある。

 でも、それ以上に強く思うことがあった。

 次に乗る馬を、絶対に不幸にしたくない。

 私のエゴで、馬を苦ませるようなレースは、もう二度としない。

 私がすべきことは、ただ一つ。馬の能力を信じ、その子が一番気持ち良く走れるように、全神経を集中させること。

 勝敗は、その先についてくる結果でしかない。


 水曜日の追い切り調教。

 私は初めて、今週末のパートナーとなる芦毛の小柄な男の子に跨った。

 彼の名前は、デイブレイク。「夜明け」という意味を持つ馬だった。

 最初は、少しだけ私を警戒しているような素振りを見せた。

 でも、私が「よろしくね」と首筋を撫で、力まず、ただ彼のリズムに身を任せていると、徐々にその背中の強張りが解けていくのが分かった。


 最後の直線。私は鞭を使うことなく、ただ軽く肩を押して促しただけだった。

 すると、デイブレイクは待ってましたとばかりに耳を絞り、弾むようなフットワークでぐんぐんと加速していった。

 風になる、とは、きっとこういう感覚なんだろう。

 馬と一体になり、地面を滑るように駆けていく。


「…すごい。この子、すごいよ…」


 調教を終えて引き返してきた私に、須藤調教師がストップウォッチを片手に近づいてきた。


「いい時計だ。それも、馬なりのままで、だ。お前、ようやく馬と対話できるようになったじゃないか」


 初めて先生に褒められた気がした。

 そのぶっきらぼうな言葉が、何よりも嬉しかった。


 ***


 レース当日、パドックへ向かう地下通路で、自分のレースを終えた翔とすれ違った。

 彼は私の前で足を止め、私の顔をじっと見つめた。


「…いい顔になったな」

「え?」

「前みたいに、周りが見えてない顔じゃない。落ち着いてる」


 彼の言葉に、少しだけ頬が熱くなる。


「デイブレイクは、後ろから行くタイプだ。調教の時の感触を思い出せ。道中、絶対に焦るな。馬群の中でじっくり脚を溜めて、最後の直線だけに賭けろ。お前と馬を信じろ」


 以前なら「分かってる」と反発していたかもしれない。

 でも、今の私には、彼の言葉が素直に、そして温かく心に染み渡った。


「うん。ありがとう」


 私がそう言うと、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、そして「…ああ」とだけ言って、私の肩を軽く叩いて去っていった。

 その無骨な手のひらの感触が、私に勇気をくれた。


 パドックで再会したデイブレイクは、調教の時よりも少しだけテンションが高かったが、私が跨ると、私を覚えていてくれたのか、小さく鼻を鳴らした。

 単勝5番人気。決して期待されているとは言えない。

 でも、私には確信があった。この子は、絶対に走る。


「結城、頼んだぞ。気負わずにな」


 調教師の先生の言葉に、私は力強く頷いた。


 ***


 ゲート裏で輪乗りをしながら、私はデイブレイクの首筋を優しく撫でた。


「…いける。あなたと私なら、きっと。私が、あなたを最高に気持ち良く走らせてあげるから」


 その言葉は、馬に語りかけると同時に、私自身に言い聞かせる誓いだった。


 ファンファーレが鳴り響き、ゲートインが始まる。


『ゲートの中が一番大事だ。馬を信じて、お前はただ馬のリズムに集中しろ』


 翔の声が、お守りのように心の中で響く。

 最後の馬がゲートに収まり、一瞬の静寂が競馬場を支配する。

 ガシャン、という金属音と共にゲートが開いた。


 出遅れだけはしまいと身構えていた体が、馬の蹴り出す力強い反動で自然に前に押し出される。

 速すぎず、遅すぎず。完璧なスタートだった。翔に教わった通り、馬の邪魔をしないように、ただその背中に身を任せる。


 馬群はごちゃつき、砂埃が容赦なく顔に叩きつけられる。

 私は無理に位置を取りに行かず、馬群の後方、外から三頭目のポジションでじっと息を潜めた。

 パートナーはまだ行きたがっていない。その気持ちを、手綱を通じて確かめる。


『レースは生き物だ。道中で焦ったやつから脱落していく。馬が一番走りやすい場所を、エマが見つけてやれ』


 翔の声が、また頭の中で響く。

 レース全体を見渡せるこの位置は、悪くない。前の人気馬たちが競り合って、少しペースが速い。

 このまま行ってくれれば、最後に必ずチャンスは来る。

 私は馬のたてがみを一度だけ軽く撫で、大丈夫だ、と語りかけた。


 勝負どころの第3コーナー。

 馬群が徐々に凝縮し、内から、外から、各馬が進出を開始する。

 砂埃の量が一段と増し、騎手たちの檄を飛ばす声が聞こえ始めた。

 ここで仕掛けるか、まだ待つか。


 その瞬間、手綱を持つ私の腕に、彼からの明確なサインが伝わってきた。


『行きたい』


 グッとハミを取り、沈み込む体。

 これまで私が感じたことのなかった、純粋な闘争心の発露だった。


「…よし、行こう!」


 私はデイブレイクに合図をだした。


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