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第12話 再起の騎乗依頼

 トレーニングが始まって数日後のことだった。その日も、私たちは日が暮れるまで、走り込みと体幹トレーニングで汗を流した。

 泥と汗にまみれ、くたくたになって自室に戻った私は、シャワーを浴びてようやく人心地ついた。


「…今日の走り込み、きつかったな」


 バスタオルで濡れた髪をガシガシと拭きながら、私は独りごちた。


 ――翔のやつ、容赦ないんだから。


 でも、あの厳しいメニューのおかげで、鈍っていた体が少しずつ騎手のものに戻っていく感覚があった。

 今日のトレーニングの反省点を頭の中で整理しながら、私は湯気の立つバスルームから、リビング兼寝室になっている部屋へと足を踏み出した。


 その瞬間だった。


 ガチャン、と音を立てて、部屋の玄関ドアが開いた。


「結城、入るぞ。さっきのレース映像の件で…」


 そこに立っていたのは、タブレット端末を片手に持った、風間翔だった。


「……え」

「あ……」


 時が、止まった。

 私の手には、髪を拭いていたバスタオルが一枚だけ。

 そして、体は、何一つ身につけていない、生まれたままの姿。

 彼の視線が、私のつま先から頭のてっぺんまでを、まるでスローモーションのように駆け上がっていく。

 そして、私の裸の全身に、突き刺さるように固定された。


「なっ…!?」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。

 咄嗟に、持っていたバスタオルで胸元を隠す。羞恥と混乱で、全身の血液が沸騰し、顔から火が出るように熱くなった。

 翔も、完全に固まっていた。

 いつも冷静沈着な彼の顔が、信じられないものを見たかのように、驚愕と動揺に揺れている。


「な、な、な、何してんのよ! なんで入ってくんの! ノックくらいしなさいよ、バカ!」


 私がようやく絞り出した金切り声に、彼はハッと我に返った。


「わ、悪い……! 鍵がかかってなかったから、つい、いつもみたいに……!」


 彼は、見たこともないような慌てふためきようで、顔を真っ赤にしながら背中を向けると、


「すまん!」


 という一言を残し、バタン! と大きな音を立ててドアを閉め、逃げるように去っていった。


 一人残された部屋で、私はその場にへたり込んだ。

 心臓が、あり得ないくらい速く脈打っている。熱い。顔も、体も、全部が熱い。

 最悪だ。よりによって、翔に。全部、見られた。

 でも、不思議だった。あれだけ私をコケにしていたはずの彼の、あの真っ赤な顔と、慌てふためいた姿を思い出すと、怒りよりも先に、なぜか少しだけ、笑いが込み上げてきてしまった。


 翌朝、5時半。

 ランニングウェアに着替えた私は、厩舎の前の集合場所で、気まずい気持ちで翔を待っていた。どんな顔をして会えばいいんだろう。

 やがて、彼が姿を現した。


「お、おはよう……」

「……ああ」


 目が、合わない。翔は、必死に私の顔を見ないようにしながら、準備運動を始めた。

 そのぎこちない動きが、昨日の出来事を物語っていた。


「あのさ、昨日のことなんだけど…」


 私が意を決して切り出すと、彼は食い気味に遮った。


「俺は何も見ていない」

「いや、でも、どう見たって…」

「だから、何も見ていない。お前の貧……」


 そこまで言って、彼はハッと口をつぐんだ。

 だが、私の耳は、その禁断の言葉を聞き逃さなかった。


「……いま、貧乳って言おうとしたでしょ!?」

「言ってない」

「言おうとした! 失礼ね、これでもBはあるのよ!」

「……微妙だな」

「なんですって!?」

「うるさい、行くぞ!」


 翔はそう吐き捨てると、さっさと走り出してしまった。


「待ちなさいよー! このセクハラ騎手!」

「誰がセクハラだ!」

「じゃあ何て言おうとしたのよ!」

「……貧相な体つきしてるから、もっと鍛えろって言おうとしたんだ!」

「それもセクハラよ!」


 並んで走りながら、私たちは子供のように言い合った。

 いつの間にか、昨夜の気まずさは消え、代わりに、今までになかった軽口が飛び交う。

 彼の背中を追いかけるだけだったランニングが、今は隣で、同じペースで走っている。

 そのことが、なんだか無性に嬉しかった。


 ***


 その日の午後、厩舎作業を終えた私を、須藤調教師が手招きした。


「エマ、ちょっといいか」


 また何かやらかしただろうか。

 恐る恐る近づくと、先生は意外なほど穏やかな顔で、一枚の書類を私に手渡した。


「お前に、騎乗依頼が来ている」

「え……?」


 信じられなかった。

 あの失態を犯した私に、まだ乗せてくれるという人がいるなんて。

 震える手で書類を受け取る。

 それは、来週の土曜日の東京競馬場。ダート1400メートルの条件戦だった。

 馬主さんの名前も、馬の名前も、知らないものだった。


「こんな私に……どうして……」

「馬主さんがな、『失敗しない人間はいない。大事なのは、その後にどう立ち上がるかだ』と仰ってくれた。お前が、この数日、どう過ごしてきたか、ちゃんと見てくれていた人がいたということだ」


 先生の言葉に、視界が滲んだ。


「チャンスを頂いたんだ。今度こそ、無駄にするなよ」

「…はい!」


 私は、涙声で、それでもはっきりと、そう返事をした。

 隣の洗い場から、翔がこちらを見ているのが分かった。その視線は、いつもより、少しだけ優しく感じられた。

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