第11話 マイナスからの再出発
故郷から帰ってきた翌朝。
私の心は、不思議なほど静かだった。
翔の言葉、そして友梨佳さんの姿が、私の進むべき道を照らしてくれていた。
それは、いばらの道に違いない。だが、もう逃げることはしない。
騎乗停止が明けるまで、あと数日。
馬に乗る前に、私がやらなければならないことがあった。
その日の朝、私は所属厩舎の事務所のドアを叩いた。中には、調教師の先生と、数人の厩務員さんが集まっている。
私の姿を認めると、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「先生、皆さん、おはようございます」
私は、その視線を一身に受けながら、部屋の中央に進み出た。そして、その場で、深く、深く頭を下げた。
「この度は、私の軽率な行動により、厩舎の皆様に、多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしました。本当に、申し訳ありませんでした」
顔を上げられない。どんな罵声を浴びせられても、当然だと思っていた。
やがて、一番年配の厩務員さんが、溜め息交じりに言った。
「……いつまでもそんな幽霊みたいな顔してるな。馬は待ってくれん。さっさと仕事に戻れ」
「……はい!」
顔を上げると、みんな、呆れたような、でもどこか仕方ないな、という顔で私を見ていた。
須藤調教師も、厳しい顔のまま「……分かったならいい」とだけ呟いた。
温かい言葉はなかった。
だが、その当たり前の日常に戻してくれたことが、何よりもありがたかった。
***
その日から、私は関係者に謝罪して回った。
体重調整の失敗で乗り替わりになってしまった馬の馬主さんの元へは、須藤調教師と一緒に菓子折りを持って出向いた。
「二度とこのようなことはいたしません」
そう言って頭を下げる私に、馬主さんは「君の騎手生命が終わるわけじゃない。この失敗を糧にしなさい」と、厳しいながらも温かい言葉をかけてくださった。
涙が、止まらなかった。
厩舎での仕事は、誰よりも早く始め、誰よりも遅くまで残った。
馬房の掃除、飼い葉作り、馬の手入れ。
一つ一つの作業に、心を込めた。
それは贖罪であり、同時に、馬という生き物と、もう一度ゼロから向き合うための、私にとっての儀式だった。
そんな私の姿を、翔が少し離れた場所から静かに見ていることに、私は気づいていた。
***
騎乗停止が明ける前日の夕方。
私は一人、トレーニングルームの隅にある木馬に跨っていた。
レースで使う鞍をつけ、鐙の長さを合わせる。ただ跨っているだけなのに、数日間の自堕落な生活のせいで、体幹がぐらついているのが分かった。
そこへ、翔がやってきた。
彼は私の周りをゆっくりと一周し、腕を組むと、溜め息交じりに言った。
「ひどいな。これじゃ馬の上でまともにバランスも取れないだろ」
図星だった。でも、彼の前で、もう見栄を張る必要はない。
「……教えて、ください」
私は、木馬の上から彼を見つめて、言った。
「私に……騎乗を、教えてください。お願いします」
翔は黙ったまま、私の背後に回り、私の腰を両手でぐっと掴んだ。
「背筋が曲がってる。もっと腹筋と背筋を意識しろ。体幹がブレるから、腕に余計な力が入るんだ」
彼の大きな手が、私の体の軸を正していく。その手は、驚くほど熱かった。
「鐙の踏み方も甘い。母指球でしっかり踏んで、膝を締めろ。馬を挟むのは、腕力じゃない。下半身だ。競馬学校で教わっただろ」
一つ、また一つと、彼は私の欠点を的確に指摘し、正しいフォームへと修正していく。
それは、競馬学校の教官よりも、ずっと厳しく、そして的確だった。
***
翌朝から、私と翔の、二人だけの特別なトレーニングが始まった。
早朝、10キロのランニング。
それが終わると、厩舎に戻り、馬房の掃除や飼い葉作りを手伝った。
翔は、自分の調教が終わると、必ず私の仕事ぶりを見に来た。
「結城、その馬房の隅、まだ汚れてる」
「その馬は食が細いんだ。飼い葉に少しだけ黒糖を混ぜてやれ」
彼の指示は、いちいち細かくて、口うるさかった。
だが、その全てが、馬一頭一頭の個性や体調を完璧に把握した上での言葉なのだと、すぐに分かった。
彼は、ただ乗るのが上手いだけじゃない。誰よりも、馬という生き物を観察し、理解しようと努めている。
その事実に、私は打ちのめされると同時に、心の底から尊敬の念を抱き始めていた。
夜は、木馬で騎乗フォームをチェックし、それが終わると、厩舎の食堂で、二人きりでレース映像を見た。
翔がタブレット端末で過去のレース映像を再生し、何度も、何度も同じ場面を巻き戻す。
「ここだ。このコーナーで、お前は仕掛けるのが早すぎた。内の馬がまだ壁になってるのに、無理に外に出そうとして、馬にブレーキをかけさせてる」
画面に映るのは、私が惨敗したレース。
見たくもない、自分の失敗の記録。
だが、彼は容赦しなかった。
「レースは、将棋と同じだ。常に数手先を読んで、自分の馬が一番楽に走れるコースを確保し続ける。お前は、目の前の馬を抜くことしか考えていない。だから、視野が狭い」
彼の解説は、まるでベテランの調教師のようだった。
なぜ、今まで気づかなかったんだろう。
彼が、ただの天才二世ではないことを。そのクールな表情の裏で、どれだけの時間をレースの研究に費やしてきたのか。
その努力の跡を、私はまざまざと見せつけられていた。




