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第10話 北の牧場の夕暮れ

 馬場の方から、かすかな人の声が風に乗って届いた。

 私は、吸い寄せられるようにそちらへ足を向ける。

 柵の隙間から、そっと中を覗き込んだ。

 ――そこに、彼女がいた。


 夕陽に照らされ、銀色の長い髪がきらきらと光をはじいている。

 友梨佳さんは、地元の子どもたちに乗馬を教えていた。

 大きなサラブレッドの背に、小さな女の子が緊張した面持ちで跨っている。

 友梨佳さんは、その手綱をやわらかく引きながら、穏やかに語りかけていた。


「大丈夫。怖くないよ。この子は、ちゃんとあなたの言うことを聞いてくれるから。だから、あなたもこの子を信じてあげて」


 距離があるせいで声までは届かない。

 けれど、唇の動きと表情で、彼女がそう言っているのがはっきり分かった。

 あの日、私が初めて馬に乗ったときにも、彼女は同じ言葉をくれたから。


 ――馬の背に揺られる純粋な喜び。馬と触れ合う無垢な幸せ。

 その光景は、私が騎手を目指すきっかけとなった、あの「原点」そのものだった。


「友梨佳さん……!」


 思わず叫びそうになった声を、私は必死に両手で口を塞いで飲み込んだ。

 涙が、堰を切ったように頬を伝う。


 私も、あの子と同じだった。

 初めて友梨佳さんにサラブレッドへ乗せてもらった日、世界が一瞬で輝いて見えた。

 馬の温もり、その優しい瞳――どれもがただただ愛おしかった。

 高校に上がると、学校が終わるたびに毎日この牧場へ通った。

 厩舎の掃除、飼い葉づくり、馬の手入れ……

 友梨佳さんは、一つひとつ、丁寧に馬への接し方を教えてくれた。


『馬はね、人間の心を映す鏡なんだよ。エマが焦っていたら、馬も焦る。エマが優しい気持ちでいれば、馬も安心するんだ』


 そう言いながら、彼女はアルビノの弱視というハンデを感じさせない繊細な手つきで、馬のたてがみを梳いてみせた。

 私は、彼女のようになりたかった。

 馬と心を通わせる、あの人のように。

 だから、騎手を目指したのだ。


 ――いつから、私は変わってしまったのだろう。

 いつから、馬に乗ることを「自分を証明するための手段」にしてしまったのだろう。

 勝ちたい。認められたい。翔に負けたくない。

 そんな黒い感情が、いつの間にか私の心を支配していた。

 一番大切な「馬を想う心」を、どこかに置き忘れたまま。


 翔の声が、再び雷鳴のように脳内に響く。

「馬の声を聞け」


 そうだ。友梨佳さんは、目が見えない代わりに、全身で馬の声を聴いている。

 だから馬たちも、彼女に心を許すのだ。

 私は一体、何を聴いていた?

 自分の心臓の音と、周囲の雑音だけじゃなかったか。


「ごめんなさい……ごめんなさい、友梨佳さん。ごめんなさい、キタノアカリ……」


 誰に届くでもなく、私は呟いていた。

 夕陽が、友梨佳さんと子ども、そして馬のシルエットを、黄金色に縁取っている。

 ――なんて美しい光景だろう。

 私はこの美しい世界を、自分の醜い心で汚してしまった。


 どれくらい、そうしていただろうか。

 やがて、友梨佳さんたちが厩舎へと引き返していくのが見えた。

 もう、ここにはいられない。


 私は遠くの馬場に向かって、深く、深く頭を下げた。

 それは謝罪であり、そして、決意でもあった。


 ――こんな中途半端な気持ちのまま、二度とこの場所の土を踏むことはしない。


 もう一度、ゼロから。いや、マイナスから。

 本当の意味で、馬と向き合うために。


 静かに柵から離れ、私は来た道を引き返し、駅へと続く道を歩き出した。

 美咲の「頑張ってね!」という声が、今度は違う響きを持って胸に届く。


 ――そうだ、私はまだ終わっていない。終わらせてはいけないんだ。

 夜の闇が迫る中、私はただひたすらに、長く険しい道へ戻るための、一歩を踏み出した。


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