第1話 プロローグ
十月の東京競馬場。
ひんやりとした空気に、スタンドのざわめきと蹄鉄の音が混じる。
私、結城エマは、今日のパートナー、デイブレイクにまたがり、ダート1400メートルの条件戦、第3コーナーの入り口に差しかかっていた。
馬群がぐっと凝縮し、内外から各馬が一斉に動き出す。
砂埃が舞い上がり、騎手たちの檄が交錯する。
ここで仕掛けるか、まだ待つか──わずかな判断がすべてを決める。
その瞬間、手綱を通じて私の腕に伝わってくる、彼からの明確なサイン。
――行きたい。
グッとハミを取り、ぐっと沈み込む体。
これまで感じたことのない、純粋な闘争心の迸りだった。
「……よし、行こう」
私はその気持ちに応えるように、軽く手綱をしごき、GOサインを送る。
デイブレイクは、最後方近くから大外へと回り込み、一気に加速した。
内でごちゃつく馬たちを横目に、何の抵抗もなく、前との差をみるみる詰めていく。
最後の直線。
横一線に広がった馬群のいちばん外に、私たちはいた。
目の前にはまだ5、6頭のライバル。ここからが本当の勝負だ。
「お願い、もう少しだけ頑張って!」
叫んだ声は、蹄が叩く轟音にかき消される。
右手の鞭を、一打、また一打と振り下ろすたびに、彼は懸命に脚を伸ばし、さらに加速した。
視界の先、ゴール板が遠い幻のように揺れる。
もう何も考えられない。ただ、この腕の中のパートナーを信じるだけ。
「まだ走れる」という魂の叫びが、手綱越しに私の背骨を震わせる。
残り200メートル。
内から一頭、強烈な脚で伸びてくる馬がいた。並ばれた。
何度も何度も、こういう競り合いで私は負けてきた。
焦り、力み、呼吸がずれ、失速する──その嫌な記憶が脳裏をかすめる。
――最後まで、馬を信じろ!
翔の叱咤が、まるで耳元で叫ばれたかのように鮮明に響いた。
そうだ、私は一人じゃない。この子も一緒に戦ってくれている。
私はデイブレイクを信じ、もう一度だけ強く鞭を入れた。
すると、一度は並ばれたはずの彼が、信じられないような根性で差し返す。
ぐっと半馬身だけ前へ。
いける――勝てる!
ゴール板を駆け抜けた瞬間、周囲の音がふっと消えた。
世界がスローモーションになり、遅れてやってきた大歓声が全身を包み込む。
勝った。
本当に、勝ったんだ。
込み上げてくるのは安堵、そしてどうしようもないほど熱いもの。
視界が涙で滲み、うまく前が見えない。
***
地下馬道を下り、検量室前に戻ると、調教師の先生が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「結城! よくやった! 最高の騎乗だったぞ!」
その肩を力強く叩かれ、私はようやく現実に戻った気がした。
馬主さんも、厩務員さんも、みんなが笑顔で私を迎えてくれる。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」と、私は何度も何度も頭を下げた。
涙が、もう止まらない。
その時だった。
祝福してくれる人垣の後ろに、腕を組んで壁に寄りかかっている翔の姿を見つけた。
私はただ、まっすぐに彼のもとへ駆け出していた。
驚いたように目を見開く翔。
いつものクールな表情が、私の突進でわずかに崩れていく。
そして私は、彼の胸に、思い切り飛び込んだ。
ドン、と胸元に当たる衝撃。翔の体が硬直するのが分かった。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう……!」
周囲の騎手や関係者たちが、驚きと興味の入り混じった目でこちらを見ている気配がする。
翔は数秒間、戸惑ったように固まっていたが、やがてその大きな手が、私のヘルメットの上に、ぎこちなくポン、と置かれた。
「……ああ。よくやった」
長かった。
ここまで、本当に、本当に長かった。
あのどん底にいた夏の日々を思えば、このゴールは奇跡のようにすら思えた。
いま思うと、すべては二ヶ月前の新潟競馬場から始まったんだーー。
◆◆◆お礼・お願い◆◆◆
ここまで読んで戴きありがとうございました。
もし、新潟競馬場で何があったか気になるぞ!
結城エマと風間翔の関係って?
と思ってくださいましたら、
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