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図書館の落とし物

僕が町の図書館で働き始めてから、もう三年が経った。

この町の図書館は、古い小学校の建物を改修して作られたもので、天井は高く、柱や窓枠には当時の木材がそのまま使われている。外から見れば少し古めかしく、観光客が足を止めるほどの立派さはないけれど、この町の人々にとっては、子どもの頃から通い慣れた、心の中の風景のひとつだった。


館内には、いつも同じような静けさが漂っている。

時計の針が刻む規則正しい音、紙が擦れ合う微かな音、誰かが椅子を引くときのぎしりとした響き。それらが重なり合って、外の喧騒から切り離された特別な沈黙をつくっている。時折、子どもの笑い声や、常連の老人たちのひそひそ話が混じるが、それすらもこの静けさの一部に溶け込んでしまう。


僕の仕事は主にカウンターでの貸出・返却、書架整理、予約本の管理などだが、その中でひとつだけ、僕が密かに楽しみにしていることがあった。

それは――返却された本の間に挟まれた「忘れ物」を見つけること。


最初に発見したのは、勤め始めて間もない頃だった。

『源氏物語』の現代語訳の245ページに、薄い紙に包まれた桜の押し花が挟まっていた。花びらはすっかり色あせていたが、ほんのりと甘い香りが残っていた。ちょうど光源氏が紫の上と桜を愛でる場面で、ページをめくった瞬間、僕はその意図に気づいた。

この花を見ながら物語を読んだ人は、きっとページの中に漂う春の空気と、現実の桜の記憶を重ね合わせていたのだろう。


それ以来、僕は返却された本を棚に戻す前に、ついページをめくってしまうようになった。


あるとき、『料理の基本』の間には、手書きのメモが挟まれていた。「砂糖小さじ1、醤油大さじ2」と震える文字。筆跡からして年配の女性だろうか。新しい料理に挑戦しようと本を借りたけれど、メモを本に挟んだまま返してしまったのかもしれない。


別の日、辻村深月の『かがみの孤城』のページには、小さな銀色の鍵が挟まっていた。鍵は古びていて、キーホルダーの代わりに細い赤いリボンが結ばれていた。裏面には何の刻印もない。ちょうど、主人公が鏡を通って孤城へと足を踏み入れる場面のページだった。

僕はしばらくその鍵を指先で転がしながら考えた。この鍵は、現実にはどこも開けないかもしれない。でも、誰かがこの小説を読みながら、自分だけの城の入り口を思い描いていたのかもしれない――そう思うと、その鍵はただの金属ではなく、心の奥に差し込む光のように見えた。


本の中に忘れられた「落とし物」は、本の種類と同じくらい多様だった。

『老人と海』には、映画の半券が挟まっていた。上映日は三年前の夏の日。きっと映画を観て、原作を手に取ったのだろう。『詩集・立原道造』には、四つ葉のクローバーがそっと忍ばせてあった。『カラマーゾフの兄弟』には、赤い糸が短く切られて入っていたこともあったし、松本清張の『点と線』のアリバイ崩しの場面からは、古い時刻表の切れ端が出てきたこともあった。

それらがただの偶然か、あるいは何か意味を持っていたのかは、僕にはわからなかった。


そうした落とし物を、僕は透明なクリアファイルに保管していった。

図書館の片隅、古い書棚の最下段にひっそりと置かれた、僕だけの小さな宝箱。中を覗くと、この町の誰かが残した時間や思いが、小さなかけらとなって詰まっている気がした。



ある秋の午後のことだ。

外の銀杏並木が色づきはじめ、窓から差し込む光も少し柔らかくなった頃、僕は『失われた時を求めて』の第一巻を整理していた。

ふと手が止まる。

ページの間に、封のされた白い封筒が挟まっていたのだ。表には、はっきりと僕の名前が書かれていた。


胸が高鳴り、手が少し震えた。

封を切ると、中から便箋が現れた。そこには、端正な文字でこう書かれていた。



「図書館の忘れ物係さんへ。

いつもありがとうございます。あなたが私たちの小さな記憶を大切に集めてくださっていることを知っています。

今度は、あなたへの贈り物です。」



文末には、小さな地図が描かれていた。図書館の裏手から伸びる細い小径をたどった先に、小さな×印がついている。


その日の夕方、仕事を終えると、僕は地図の道順を確かめながら裏手の小径へと足を踏み入れた。道は思ったよりも狭く、両脇を笹や蔦が覆っている。足元で落ち葉がかさかさと音を立てた。小径の奥に、古い樫の木が立っていた。幹は太く、根元は苔に覆われている。その根元を探ると、土に半分埋もれた小さな木箱が見つかった。


箱の中には、色とりどりの栞、古いモノクロ写真、切れ端になった手紙、小さなビー玉、押し花……そして一枚のカード。



「図書館は本だけでなく、人々の記憶も保管している場所です。

あなたがそれを理解してくださって、嬉しく思います。

これらは、この町の人々が本の中に残した心のかけらです。どうか、これからも大切にしてください。」



その文字を読み終え、僕は箱の中をもう一度じっと覗き込んだ。

色とりどりの栞、古びた写真、手紙の切れ端、小さなビー玉、押し花――どれも、この町の人々が本の間に残したものに違いなかった。

そして、ふと気づく。

この品々は、きっと過去の図書館員の誰かが、僕と同じようにそっと集め、大切に保管してきた「落とし物」なのだ。

僕が今、密かに続けていることを、その人もまた、同じように行っていた。そしてそれを僕に託してくれたのだ。

そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。

まるで時を越えて、見知らぬ同業の手とそっと握手を交わしたような、不思議な感覚だった。



僕は木箱を抱えて図書館へ戻り、静かな館内の片隅にそっと置いた。

その夜、閉館後の図書館で、僕はしばらく本棚の間を歩きながら考えた。この場所には、本の物語だけでなく、読み手たちの時間や記憶までもが積み重なっている――そう思うと、書架の影や古い紙の匂いまでもが愛おしく感じられた。


それからも僕は、本の間に隠れた「落とし物」を探し続けている。

ただ、今ではそれらが偶然の産物ではなく、誰かの意図的な贈り物のように思えてならない。

もしかしたら、この町の人々は、本を通じて僕にメッセージを送っているのかもしれない。そして僕は、そのメッセージを受け取る唯一の係なのだ。


窓の外で、木々が風に揺れた。

今日もまた、誰かが本の間に小さな贈り物を忍ばせていくかもしれない。僕はそれを楽しみにしながら、静かに本を整理し続けている。



fin.

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