世界の理
+
それはまるで、焔に溶けるような光景だった。眩い虹色の光がハバリの手から閃き、天を貫いた瞬間。身構えたアランサスの前でその指先が、花が枯れ朽ちるように崩れていった。
目を瞠るアランサスの前でみるみると――黒く染まった部分から、空にこぼれて散っていく。子どものような癇癪混じりの泣き顔がかすか見えた気がしたが、すぐに炎纏う風を絡めた金糸の影に隠れてしまった。
アランサスが最後に見たのは――紅蓮に撫でられ、朱色に煌めく長い金の髪。それが燃えるように灰へと変わりゆく様と、残された白い衣が、炎に獲られて呑まれる一瞬だった。
あまりに刹那のことで、なにが起きたか頭が追い付かないまま、茫然と、アランサスは立ち尽くした。
「アランサス! やったのか?」
だから、期待を込めて駆け寄ってきた幼馴染に、ぼぅっとしたまま返事をしてしまったことは、仕方がないというものだろう。
「いや、なんかよく、わかんない……」
「はぁ? わかんないってなんだよ?」
煤にまみれてもなお綺麗な顔が険しくしかめられる。それに気圧されて、アランサスは慌てて言葉を繋いだ。
「あ、いや、なんか、俺がしたわけじゃなくて? なんか、炎が……いや、見ててもよく分かんなかったんだけど、とりあえず、消えた!」
しどろもどろな言いぶりを、最後になんとか得意げに言い繕ってはみたものの、内容がまるで頼りないのは変わらない。紫の双眸は胡乱気にアランサスを睨み据えた。
そこに救い主の姿が、破れたドレスの裾を引きずってのそりと歩み寄る。治すほどでもないと放置している顔や腕の切り傷が、もののふの猛々しさをその勇ましい風体に添えていた。
「リュデ殿が釈然とせぬのも道理だが、ハバリが消えたというのは間違いなかろう。いまだかつてないほど、強く確かな聖女の力を身の内に感じる」
「いまだかつて?」
隣に並んだヒロインに、リュデは首を傾いだ。乱れた髪をかき上げ直しながら、ヒロインは頷く。
「おそらく、聖女の力は私に宿る前に、すでに大方ハバリに奪われていたのだろう。実は最初に聖女の力が私に宿ったと悟った時、この程度のものかと思ったのだ。だがいまは明らかに、この身に感じる力の質量が違う。ハバリが消えたことにより、私の元へ聖女の力がすべて戻ってきたのだろう」
見上げれば確かに、彼の片眼だけになっていた虹色は、いまはくっきりと力強く両の瞳に輝いていた。
「そういや、あいつが生み出した地面の虹色の光も、ちょっと弱まってきてるみてぇだしな」
「術者がいない今、楔とやらを除けば、同じように消えるのではないだろうか。となると急務は炎の方だ。こちらは早く消して回復を図らねば被害が甚大になる。どこまで、影響が及んでいるかは分からぬが……」
厳しい面持ちで、ヒロインは瓦礫すら飲み込み燃える炎へ目を向けた。まだいまひとつ、ハバリが消えた一瞬から意識を戻しきれていなかったアランサスは、慌てて追いつこうと頭を振る。
「ええっと、つまり現状は、理由は不明ながらひとまずハバリによる世界の滅びは回避できたってことでいい……のか?」
その時だ。轟音が空気を震わせ、大地が揺れた。ほのめく程度になっていた虹色の光が急速に勢いを取り戻し、そこを辿るようにどんどんと亀裂が走って、でこぼこと地面が隆起していく。
「うむ。回避は、出来てないようだ」
「どうして⁉」
耳を殴りつける轟きとともに地が裂け、砕け、炎が吹き上がる。悲鳴を上げるアランサスに、焦るリュデの声が重なった。
「おい、なんか虹色の光どころか、炎も勢いが増してやがるぞ! あいつらまだ生きてて、どっかにいるんじゃねぇか⁉」
「嘘だろ! どう考えてもあの炎の矢になったのは生きてられなさそうだったし、ハバリも絶対、消えてたのに!」
「いや、聖女の力は私にある。万一いたとして、このように力を行使することは出来ぬはずだ。なにか別の、」
「あー! 思い出した!」
冷静なヒロインの分析を遮って、突如アランサスは頭を抱えて絶叫した。
「虹色の光! 虹色の光だ! なんかそれが、ハバリから空に飛び出してって、そのあとあいつが突然、その、消えたんだ! あの光が、どう考えても怪しい!」
「てめっ! 重要情報じゃねぇか! 軽々しく忘れてんなよ! なんか前もあったぞ、こんなこと!」
胸倉に掴みかかるリュデをどうどうとヒロインがなだめにかかる。と、次の瞬間、はたとヒロインが空を振り仰いだ。
「よもやその光とは……あれ、か?」
聞き違いようもなく、その声は震えていた。見上げれば、焔に裾野を朱色に染められた闇の中。月も星も気圧す輝きで、虹色の光が煌めいている。爆ぜ散る粒子が、赤に、青に、眩く遊び、夜に踊っていた。けれどそれはどこか、底冷えする不気味さを帯びていて、目を射抜き潰しそうな恐ろしさで瞬いていた。
思わず、ごくりと唾を飲み込んで、アランサスは混乱する頭の中から思考の糸を手繰り寄せる。
「待った待った。冷静に考え直すぞ。確かにハバリはこの世を滅ぼして、転生させようとしていた。でもあいつがしようとしてたのは、滅びを早めるのと、転生の方向性をいじることだ。この世界が転生を繰り返すのは、ハバリの力じゃなくて――元々この世の理が……そう、だからで……」
そこでアランサスは気づいた。滅びの歩み寄った世界を転生させていたのは、ハバリではない。あくまで彼の力は、異世界転生への関与。では、誰がそれをハバリに許したのか――。
「この世界は、ハバリのせいで滅びかけた……。転生は、滅びの兆しが訪れた世界に起きる……」
ハバリは、この世の滅びを早めようと働きかけた。それは彼が意図したように成就はせず、志半ばで、なぜか彼は消えてしまったが、滅びへの道筋はもう敷かれて整っていた。
「……なあ、このままだとやっぱり、世界は滅びるんじゃないか?」
呆然と、空に輝く虹色の光を見据えたまま、アランサスは囁いた。
「この世の理が、この世界は滅びに進んでいると見なしたんだとしたら。もう、転生に向けて、歯車が動き出しているんだとしたら……」
でも、本当にあれは――いまアランサスの見上げる先で、眩き星のごとき冷たい光を放つ虹色の輝きは、この世の理とやらの姿なのだろうか。炎に飲まれ、崩れる大地を照らしながら――そこにあまた息づく今を生きる人々の恐れと嘆きを見つめながら、その光はあまりに燦然と美しすぎて、おぞましさに身の毛がよだつ。
あまりに無慈悲な輝きだ。もしあれが、いくど世界が繰り返されても付きまとう、転生の理なのだとしたら――……
(理なんて、まっとうなものじゃなくて――……それは、この世を呪う、厄災だ)
瞬間、天空の虹色の光が、ぐにゃりと膨れ歪んだ。細長く広がり、腕が伸び、足が生まれ、長い髪と羽根の耳を持つ人の姿を象ったそれは――
「アランサス!」
耳に届いた叫び声は、リュデだったのか、ヒロインだったのか、それとも、別の誰かだったのか――。
伸びきた光の腕に囚われ、飲み込まれて、アランサスの視界は目も眩む虹色に染まり狂った。