核のボタン
「ね、ね、ね、これさ、ねえ、ね、何だと思う?」
「うーん? 箱みたいですけど、さぁなんですかねー大統領」
そう、今この防弾仕様のリムジンに乗る俺の隣にいるのは、かの大国の大統領。
今回、我が国で国際サミットが行われるわけだが一職員にもかかわらず、なぜか俺は前回、大統領に気に入られ今回も現地の案内役、つまりは秘書のような役目を担わされているのだ。
「これ……核のボタン」
「……え、は、え、は、え?」
「核兵器。うちの国の」
「え、え、え、え、か、核? 核!?」
「しぃー、内緒で持ち出したんだから、大きな声出さないでよぉ」
「な、な、内緒? え、あ、ああもう、冗談ですか、あははは。
いや、あれですよ、核兵器のボタンを持ち歩けるのは僕だって知ってますよ。
だって、もし大統領が国を離れている際にどこかの国に攻められ、核兵器を発射せざるを得ない状況になったら困りますもんね」
「うん、うん、うん、そうそう」
かなり焦ったが、そうだ冗談だ。この大統領は老齢で正直、まあ口が裂けても言えないが、そうとうキテると俺は思っている。カメラの前じゃ往年のハリウッドスターのようにビシッと決まっているように見えるが気を抜くと、このように子供染みた、そう赤ちゃん返りするのだ。
子供の悪戯と思って怒らずに話を合わせたり褒めてやればいい。会議場までそう長くはかからないだろう。
「確か本物は鞄の中に入ってるんですよね。なんて言ったっけなぁ核の、核の」
「核のフットボール」
「ああ、それですそれ。暗号コードが入ったカードがどうとかとか、まあ、核兵器を発射するよう指令を出す装置なんですよね」
「うんうん、でもあれ、偽物」
「え?」
「偽物というか時代遅れ。うん、これ小型化に成功したの。それに暗号とか何とかとか関係なし。このボタン押せばいいの。それで『撃て!』って指令が送られるの」
「は、え、いや、冗談ですよね、ね、ね大統領」
「どこねらうー? へへへへへへ」
「い、いや、ま、マズいですよ! そんなの戦争になりますって!」
「んーん、撃たれた国はそんな元気ないよ。たーくさん発射されるから」
「いや、え、でも」
「軍事基地とかーその国の偉い人とかがいる場所ぜーんぶ衛星とスパイで把握済みなの」
大国の長が言うことだ。それは本当だろう。根拠が根拠なだけに俺はブルッと震え、込み上げる尿意に足を閉じた。
「んで、どこねらうー? やっぱりこの国の敵がいいよねー? ほらぁ、よくミサイル撃ってくるあの国ー」
「いや、え、まあ、いや、でもやっぱりマズいですよ! 向こうにも国民、一般市民がいるんですよ!」
「人は増えるよ。ほらぁ、あれ、焼き畑農業。君らだって復興したじゃない?」
「大統領……それ、だいぶ問題発言ですよ……」
「むふふ、ごめんちゃい、あ、あの辺り行っとく? 揉めてるんでしょ? 島がどっちのものとかで、ふふふ、島って、あはは。ちっちぇえなぁ」
「お、おやめください、大統領。色んな意味で。あと大きな問題ですから」
「ほふふふふ、核のスイッチが目の前にあることよりも? ほら、この蓋開けて、それから鍵をここに刺して、で現れたスイッチを……おすぅー!」
「やめ、だめ、だめだろジジイ! やめろ!」
「はーなーせーよーだいとーりょーだぞー!」
「あ、あ、押した! 押しやがった! あ、あ、あおしまい、あはは、あは」
太もものあたりに感じる温かさに気分が和らいでいく。これは夢なんじゃないかと俺は思った。いや、そうに違いない。
「おー! あはは! ユー、もらしちゃったのぉ? ふふふふふ、だいじょーぶ長押ししなきゃいけないの」
「へ、ふぇ、へへへ、へー、は、ははぁ……」
大統領のその言葉に全身の力が抜け、俺はケタケタと笑いたくなった。いや、笑った。この笑い声は俺のものらしい。自分が自分じゃないみたいだ。大統領も笑い、ボタンをカチカチと押している。
「ほらほら見て見て。だからね、こうしてたくさん押しても平気なんだよぉ」
「も、もう勘弁してくださいよ、大統領……」
「ふふふ、ほら、君にも押させてあげる。特別だよぉ」
肩を、顔を寄せて大統領がそう言った。鼻をひくつかせ、俺が漏らした小便の匂いを嗅ぎ、悦に浸っているようであった。
「いい、いいですよ。も、もうしまってください……」
「じゃあ、僕が押しちゃおうかな。ながーくね」
「わ、わかりましたよ、ほら」
「ドオオオオオオン!」
「うっわっ、や、やめてくださいよ!」
大統領が耳元で大声を出したので俺はボタンを落としそうになった。大統領は無邪気に笑い、小便が染みた俺の太ももをバシバシ叩き、揉んだ。そして、その手を自分の鼻に擦りつけ、ぺろりと唇を舐めた。
「むふふふふ、そりゃやるでしょう。それでどうだった? 中々ないよこんな機会。大統領だってそう容易く押せないもの」
「そりゃ、まあ、悪くはない気分ですけども」
「でしょ? ほら、もう一回押してごらん」
またも大統領がぴったりと俺に体を寄せる。息が耳に、顔にかかる。朽ちた何かしらの匂いがした。
「ええ、まあ、はい……」
「おお、いいねぇ、じゃあ僕も」
「ちょ、ちょっと大統領! 長いですって! 押しすぎ!」
「あっはぁ、だいじょーぶだいじょーぶ! 確か五秒押さなきゃいけないから。あれ? 三秒だっけ」
「はあ、さ、もう仕舞ってくださいよ。ほら、会場に着きましたよ。あーあ、もう、ズボンに染みちゃったよもう……」
「その大陸に核ミサイルドオオオオオン!」
「ちんちんに触らないでくださいよ! ほら、もうすぐ車止まりますよ!」
「あと何秒ー?」
「知りませんけど敷地に入りましたし、そんなにかからないですよ」
「いーち、にーい、さーん」
「はいはい」
「しーい」
「そうそう、え、あえ、なに、なにしてんだあんた! スイッチ! スイッチ押してる!」
「ごーお」
「あ、あ、あばか、あ、あ、ばか、ああはははははははもももうだめだぁあはははははは」
終わった。終わった。この世の終わりが俺の頭に浮かんだ。体の穴から臓腑がにゅるにゅるとひり出されたような感覚がした。
俺は無性に母親に会いたくなった。抱きしめてほしかった。叱ってほしかった。でももうおしまい。戦争。みんなみんなしんでしまう。しんでしまう。おひさまいいてんき。おくるまからでておさんぽにいきたいな。
「うふふ、これはね、偽物だよ」
「ふえ?」
「退屈しのぎさ。悪かったね。しかしまあ、おお君、くっさいなぁ。
大きい方も漏らしたのかい? まったく赤ちゃんみたいな男だ。
これは電気椅子送りだな。なんてな。はははははは! うお、何をする!」
「このじじい! この! ばか! あほ!」
「はははは! 悪かった悪かった。だからその辺でやめたまえ、私は大統領だぞ。ははははははは!」
「だいとーりょーもそーりーもあるか! この、あ、これ、へへへ」
「あ、こら、返せ! やめなさい!」
「くらえ! だいとーりょー! ばーん! ……あえ? おっきいおと……うぅぅ、あ、ちがうの、おもちゃかとおもったの!
ねえ、おもちゃのじゅうでしょ? あ、はなして! はなして! ぼくわるくない! えへ、えへへへへ、かくへいきはっしゃーえへへへ、えへ、へへへへへへへへへ……」