口内炎が出来てしまった男、口内炎を愛することを決意する
口内炎が出来てしまった。
口の中、右頬の内側、ベロで触った感触だと1センチぐらいはあるだろうか。かなり大きい。
「口内炎できちまった……くそっ!」
独りなのに大声で悪態をつかずにはいられない。
スマホで口内炎について検索する。
考えられる原因は――栄養不足、睡眠不足、ストレス、体調不良、口の中を噛む……はっきりいってどれも思い当たる節がある。
特効薬的な治し方は当然なく、しばらくはこいつと一緒に生活するしかない。
最悪である。
今までの経験からいって、一、二週間は治らないだろうし、それまでは楽しく食事をすることができない。歯を磨く時だって気を遣う。
ベロで口内炎を触ってみる。口の中らしからぬデコボコ感が俺を不快にする。口の中に荒れ果てた大地が出来てしまったかのようだ。あのスベスベ感が恋しい。
こうなった以上、一刻も早く治したい。
この日、俺はドラッグストアで口内炎に効きそうなサプリメントを買ってきて、飯も野菜を多めにした。あんまり好きじゃないんだけどな、野菜。
しかし、口内炎の時に肉や揚げ物を食べたらさらに悪化する気がするし、俺はどうにか野菜たちを平らげた。
しばらくはベジタリアンな日々が続きそうだ。
夜になっても口の中が痛い。不快感がある。
明日になったら治ってますようにと祈りつつ、俺は布団に入った。
***
三日が経った。
口内炎は治っていない。
ベロで触ってみる。小さくなってる気がしない。こりゃ長引きそうだ……と気が滅入ってくる。
たかが口の中に、たかが1センチ程度の出来物が出来ただけ。
重い病気にかかったわけでも、大怪我をしたわけでもない。
なのにこの不快感ときたらどうだ。
「失って初めて分かる」なんて言葉があるが、“口内炎がない口”もまさしくそれだなと実感する。
「早く治れよ~」
こう言いながら、ため息をつく。
このところ全然食欲がない。
口内炎かばいながら食事するのは面倒だし、食事自体が面倒になっている。
口内炎が気になって、仕事も身が入らない。
俺はあまり愚痴をこぼさないタイプだが、つい同僚に話したら、
「口内炎? ビタミン剤飲んで寝てれば治るって!」
なんて笑い飛ばされた。
そんなんで治るわけないだろと腹が立ち、愚痴ったことを後悔した。
なんでこの世には口内炎があるんだろう。
もし俺がノーベル賞を与える権限がある人だったら、口内炎を即治す方法を見つけた人には真っ先にノーベル賞を与えてやる。
もしタイムマシンがあったら、少し前の自分に「口内炎にならないようにしろよ」と注意してやりたい。
何をしてても口内炎がちらつく。ああ、どうすればいいんだ。
***
夜、俺はテレビを見ていた。
昔ながらのベテラン俳優が、若い頃の思い出を語っている。
「大嫌いな先輩がいましてね」
事あるごとに殴られたとか、罵声を浴びせられたとか、昭和感溢れるエピソードだ。今だったらすぐに問題になるだろう。
しかし、この俳優は――
「私はその人を好きになろうとしたんですよ」
パワハラをしてくる先輩を好きになろうと努力し、罵声を浴びせられたらすぐ自分のどこが悪かったのかと分析し、その結果、役者として一皮むけたという。
これまた昭和感溢れるというか、常人が真似したらうつ病まっしぐらといった感じの成功譚である。
どう考えても理不尽な先輩が悪いのに、好きになろうとするなんて、とても俺には無理だ。
だが、同時に俺は「これだ!」とも思った。
パワハラ先輩を好きになるのは流石に無理でも、口内炎ならイケるかもしれない。
口内炎を好きになってみよう。努力してみよう。
そうしたら、こうして抱えている不快感を多少は解消できるかもしれない。
かといって、口内炎をどうやって好きになればいいんだろう。
考えてみよう。ポジティブシンキングだ。
口内炎のおかげで俺に何かメリットがなかったか考えるんだ。
まず、野菜をよく食べるようになった。野菜を食べれば、きっと口内炎が早く治ると信じて。口内炎がなかったら、俺は今日も大好きな肉や揚げ物を食べていただろう。
食事の量自体も減った。口内炎のせい、いやおかげで、今の俺はあまり物を食べることができない。だから当然、食費も減るし、体重も減ることになる。最近お腹の肉がちょっと気になってたし、ちょうどよかった。
早く寝るようになった。起きていても口内炎が気になるので、夜更かしせず、さっさと寝ることが多くなった。
おお、メリットだらけじゃないか。
「一病息災」という言葉がある。一つぐらい病気があった方が、かえって健康に気を遣い、長生きできるという意味だ。今の俺はまさにそれじゃないか。
口内炎のおかげで俺は長生きできる。ありがとう、口内炎。
こうなったらいっそ、口内炎に名前でもつけてみるか。
なんて名前にしよう。口内炎、炎、炎……炎子にしよう。
性別は女。なぜなら女だと思った方が愛せるから。
そう、俺は口の中に恋人ができたのだ。愛しているぞ、炎子。
ベロで口内炎――炎子に触れる。
『やだ、もう。くすぐったいわね……』
こんなことを言われてる気分になってくる。
たまらない。ゾクゾクする。
この日の俺は、口内炎が出来て以来、久しぶりに楽しい気分になった。
そして、この日からの俺は炎子を大いに愛した。
もはや彼女を邪魔者だとは思わない。
ベロで触る時は、とびきりの愛情を込めてやった。
『嬉しいわ、ありがと』
なまめかしい声で、炎子は俺にこうささやいてくれた……ような気がした。
俺と炎子の楽しい日々は続いた。
***
炎子が出来てから、二週間が経った。
彼女との生活もすっかり慣れ、俺にも色々と変化が訪れた。
健康的な生活を送るようになったので、心なしか肌のつやがよくなった。
早寝しているおかげで、以前は常に感じていた瞼の重みもなくなっている。
体重も2キロほど減った。
おかげで体が軽い。心まで軽い。
なにもかも炎子のおかげだ。
だが、来るべき時は来てしまった。
朝起きて、顔を洗い、なんとなくベロで口の中をまさぐっていると気づいた。
「……あれ?」
口の中のあのスベスベ感が戻っていた。
炎子がいなくなっていた。
「……炎子!? 炎子! 炎子ぉ!」
もはや炎子はどこにもいなかった。
つまり、口内炎は治ったのだ。
めでたしめでたしのはず。なのに俺の胸には寂しさだけが残った。
炎子、いつかまた、お前に出会った時は必ず「お帰り」って言ってやるからな。
その時まで、さようなら。
***
数ヶ月後、俺の記憶から炎子のことがすっかり抜け落ちてきた頃、再び事件が起こった。
食事中、口の中に痛みを感じ、ベロで歯茎を触ってみる。
すると、口内炎が出来ていた。
俺はもちろん――
「口内炎できちまった……くそっ!」
大声で悪態をついた。
最悪である。
「お帰り」なんて言うわけがない。
完
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