恋愛小説好きの恋愛脳な婚約者が「恋がしたい」と言い出して〜浮気発言かと思ったら違うようです〜
ヴィクトリア・ハミングバードとルーカス・クレインは、婚約者同士だ。同じく伯爵位を戴く二つの家の政略的な婚約で、幼い頃から共に過ごしていた。関係の始まり自体は政略であるが、相性は悪くなく問題もなく、まだ学生の二人は友人のような距離感で微笑ましいと評判である。
仲のよい二人は、学園が休日の本日もハミングバード家の屋敷で談笑を――。
「ヴィクトリア、この前のスラッシュ先生の新作を読んだか!? 真実の愛などという甘言に惑わされず、幼馴染の手を取った勇者と村娘の恋物語!」
「うるさ……」
「煩くない!」
「絶対に声は大きいわよ!」
ヴィクトリアはテーブルを両手で叩きたい気分に襲われたが、それを何とか堪えた。もっと幼い頃なら感情のままにそうしていただろうけれど、もう彼女も学園では最高学年である。卒業と同時に成人として認められ、結婚をし貴族として社会に出ていかねばならない彼女が、そのような振る舞いを許される訳がなかった。
対するルーカスはヴィクトリアのぶるぶると震える手を見ながらも、何もなかったかのようにまた話しだす。
「すまん! で、読んだか!?」
変わらず興奮して大声を出すルーカスにヴィクトリアはため息を吐く。しかし、これはいつものことだ。二人の間で騒ぎ立てることではない。そのくらいには二人は気の置けない仲であるのだから。
この場にヴィクトリアかルーカスの両親がいれば、彼の態度も少しは改めさせねばならないが、そうではない。ハミングバード伯爵夫妻もクレイン伯爵夫妻も共に現在ここ王都にはおらず、自領での自治に励んでいる。ここはハミングバード伯爵家の王都にある屋敷で、本来の主人はヴィクトリアの父だが、その代理を彼女がしているので多少の気安さは容認できた。
「……まだ買ってもないわよ。あれ先行で百冊だけの発売だったでしょう」
「せ、先行発売の予約に漏れたのか……! 可哀想に!」
「いいのよ、別に。後でちゃんと買うつもりではいるから」
「持ってきてやればよかった……っ、可哀想に……」
「あのね、ルーカス。泣くことじゃないの」
この国の男性にしては珍しく恋愛小説の愛好家であるルーカスは、ヴィクトリアが有名作家の新作を読めていないことに涙した。しかしヴィクトリアは嗜み程度に小説を楽しむものの、ルーカス程の情熱は持っていない。この二人には微妙な温度差があるのだが、それをヴィクトリアがいくら言ってもルーカスは理解しないのだ。
「ネタバレになるから語れないが、く、語りたいぃ!」
「そっちが本音でしょう。いいわよ、語ってくれて。私、ネタバレ禁止派じゃないから」
「駄目だ! あの感動は自分で体験しなくちゃ駄目なんだ!」
「そう、じゃあ、正式な発売まで待ってて」
「うぐぅぅぅう……!」
「ほら、マカロンあげるから」
「ありがとう……!」
ヴィクトリアはルーカスの空いた皿に、大皿のマカロンを追加してやった。ルーカスは昔から一口サイズのお菓子を好むから、二人のお茶会の時には必ずそういうものが用意された。
「それにしても、本当にルーカスは恋愛小説が好きね」
「舞台も好きだぞ。貴族の嫡男でなかったら、絶対そういう道に進んでいたと思う!」
「そうでしょうねぇ……」
「何だ、ヴィクトリア。君、まさか男が恋愛小説とか舞台を見に行くのは気持ち悪いとでも言う輩だったのか?」
「そんなふうに思う類の方なら、もっと前に騒いでいると思うわ」
ヴィクトリアはしみじみとそう言った。それ程にルーカスは恋愛小説や舞台に熱を上げている。そんなルーカスをあからさまな好奇の目で見てくる人もいるが、彼はそれを気にしない。ヴィクトリアも気にする必要はないと感じている。
それどころかヴィクトリアは、ルーカスが本当に恋愛小説作家や舞台作家になったらどんなに素晴らしいものを作るのかしら、とよく考えているくらいだ。彼女自身も学友にそれとなく遠回しで『呑気でいらっしゃるのね』と言われたことがあるが、呑気も何も別に悪いことをしている訳ではないのに、不思議なことを言うものだと感じていた。
「確かに!」
ルーカスは豪快にそう笑った。彼は、さっぱりとした人間だ。声が大きく快活な人で、おおよそこれから貴族としてやっていくような感じには見えない。しかしそうではないことをヴィクトリアは知っている。自身の婚約者はこれで結構やる時はやるのだと、彼女は密やかに自慢に思っていた。
そんな自慢のルーカスが、笑った直後に顔を曇らせてぼそりと呟いた言葉は容認できそうもなかったけれど。
「はあ、僕も主人公たちのような恋がしたい……」
ヴィクトリアは、持っていたカップを危うく落とすところだった。今、この目の前の男は何と言ったのか。政略結婚の相手だとしても、さすがにその人の前で発言していいような内容ではなかったように思う。
ヴィクトリアは混乱と怒りをできうる限りに隠して、ついでに声もひそめることにした。少し遠くで控えている使用人たちに聞かれたい内容ではなった。
「……それ、私の前で言う?」
「? 駄目なのか?」
ルーカスは、心底不思議そうに問うてきた。婚約者のヴィクトリアに対して、『恋をしては駄目なのか?』と。
「駄目なのかって。……そうね、私たちは別に家同士の婚約だし、ルーカスがそう思うのは自由だわ」
そういう話は聞かないでもない。学園を卒業するまでの期間限定の恋を楽しむ学生は、男女問わず毎年それなりの数いるらしい。今までその手の話題にかかわりがなかった分、衝撃が大きかったけれど、確かにヴィクトリアがルーカスの自由を縛るべきではないのだろう。そうだ、それが“貴族”としては正しい。
ヴィクトリアは動揺を隠して、貴族として正しく振る舞うことにした。背中を伝う冷や汗と早くなる心拍には気づかないふりをして。
「ヴィクトリアもそう思うか!?」
「煩い」
「煩くない! じゃあ、どれからやる!?」
「……どれからって?」
まさかこいつ、私に相談を持ち掛けているのか、そう思ったヴィクトリアはさすがに顔を顰めた。堂々と浮気、いや、浮気と定義すべきなのかも分からないが、その相談を仮にも婚約者であるヴィクトリアにしているのか。
いくらなんでも、そんな相談には乗れない。そう抗議しようとしたヴィクトリアが口を開くよりも早く、ルーカスは行儀悪くもテーブル肘をつき手の平に顎を乗せてぶつぶつと話しだす。
「さすがに過激な接触は避けた方がいいと思うんだ。でも進展がないと恋にならないかもしれないし、ではやはり何かしらの刺激は必要だ。けれどこの平和な世界で物語のように命を懸けて戦うようなことはないだろうし、なら吊り橋効果的なものは試せないし……いや、実際に吊り橋に行ってみるとか?」
ルーカスのこれも、昔からのことだ。何かを考え込むと、話しかけているのか独り言なのか判別しづらくなる。ヴィクトリアは眉をひそめたまま、声をかけた。そうしないといつまで経っても終わらないからだ。
「ねえ、さっきから何の話をしてるの?」
「僕らの恋の話だろう。ヴィクトリアも考えろよ」
「……え?」
「うううん、でもこれは簡単な話じゃないな。よし、ヴィクトリア。明日までの宿題にしよう」
「あ、明日? 明日までに、何をすればいいの?」
「恋のきっかけ探しだよ! 僕はこれから帰って持っている恋愛小説を読み返してみる。きっと何かヒントがあるはずだ! ヴィクトリアも明日までに何か考えて来いよー!」
「え! ちょ、ルーカス!?」
ヴィクトリアが止めるのを待たず、ルーカスは行ってしまった。その後ろ姿を見送って、ヴィクトリアは呆然と立ち尽くす。
「わ、私との、恋……? って、何?」
子どもの頃から突飛なことを言い出すルーカスによく慣れているヴィクトリアだけれど、今回ばかりはどうしようもなかった。
―――
あんなことがあった翌日だろうと、学園は通常通りにある。まあ、ヴィクトリアはルーカスの言ったことが頭から離れなくて眠れない、なんてことはなくぐっすりと休んだのでそう支障はない。ルーカスの言動にいちいち右往左往していては、体がもたないのだ。彼は子どもの頃からとんでもなく突拍子もないことをしでかす天才で、ヴィクトリアはそれをずっと隣で見てきたのだから肝が据わっていて当然なのだ。
とにかく、今日学園で会ったらどういう意図での発言なのか説明させないと、とヴィクトリアは意気込んでいた。ルーカスは自身の頭の中だけで物事を完結させて説明を省く癖がある。あれで昔よりもましにはなったのだけれど、まだまだ意思疎通が難しいこともあり、その都度ヴィクトリアが『それではいけないの』と教えなければならなかった。
いつも通りに支度を済ませたヴィクトリアが、登校まではまだ時間があるからと令嬢らしく優雅に紅茶を楽しんでいたその時、珍しく使用人が少し慌てた様子でやって来た。
「お嬢様、あの、お迎えがいらっしゃっています」
「お迎え?」
「はい、ルーカスお坊ちゃまが」
何のことだろうとヴィクトリアは聞き返したが、使用人も首を傾げたままそう返した。
「……何で?」
「さあ……?」
今までルーカスが登校時にヴィクトリアを迎えに来たことなどなかった。そんな約束も特にしていない。疑問は重なるが、けれど待たせる訳にもいかず、ヴィクトリアは予定を早めて登校することとなった。
「おはよう、ヴィクトリア!」
玄関ホールに向かうと、制服を着たルーカスがいつも通りに元気よく挨拶をしてきた。やはり声は大きい。
「……おはよう、ルーカス。今日は、どうしたの?」
「昨日帰って恋愛小説や心理学の本を読んだんだけどさ、人間って単純に傍にいる人に好意を持つらしい」
「はあ……」
「それから、ヴィクトリア!」
「何?」
「たくさん名前を呼ぶのもいいらしいんだ、ヴィクトリア」
「とって付けたように呼ばないで」
「なので、今日から!」
ヴィクトリアの話を聞いているのか聞いていないのか、ルーカスは身振り手振りで大袈裟に演説をする。ルーカスがこんなふうなので、ヴィクトリアもずばずばと思ったことをすぐ言ってしまうのだ。しかしルーカスは気にしているそぶりもなく、しかもやはりヴィクトリアの話を聞いていないことが多いので、彼女ももういろいろと気にしないことにしている。
「登下校はもちろん休憩時間もできるだけ一緒に過ごそう! それからお互いに名前を呼び合おう! いいな、ヴィクトリア!」
「えー……」
「えー、じゃない。そういうヴィクトリアは何か思いついたのか?」
「……」
「なら、当分、僕の考えたやり方でやっていく! さ、遅れたら大変だ。そろそろ行こう!」
「分かったわ……」
とりあえず、昨日の『恋がしたい』という発言は、『浮気がしたい』という意図ではないようだとヴィクトリアは小さく安堵した。安堵はしたが、やっぱりいまいちよく分からない。
しかし、ルーカスのやりたいことが常軌を逸している訳でもなし、まあ好きにさせてみようとヴィクトリアは頷いた。
―――
二人が通うこの学園は、この国の全ての貴族子女が通うことを義務付けられており、初等部中等部高等部と分かれている。高等部の卒業と共に成人とみなされ、正式に貴族の仲間入りを果たす。初等部と中等部までは地方にも分校があり、そこで勉強する者もいるが高等部は王都のみにしかない。例外もあるにはあるが、ごく僅かだ。ヴィクトリアとルーカスは自領が王都とそう離れていなかった為、初等部からずっと王都の学園に通っていた。
そんな由緒正しい学園に、クレイン伯爵家の馬車でルーカスと一緒に登校したヴィクトリアは、昼休みのベルと同時に、自身のクラスで学友たちに囲まれてしまった。
「ねえ、ヴィクトリアさん。今日はクレイン様と一緒にご登校されていたけれど、どうしたの?」
「お二人って元々仲のよい印象でしたけど、更に何かあったんですか?」
「そういえば、休日に二人でのお茶会があるって仰ってましたよね。その時に何か?」
キラキラと目を輝かせているのは、皆、貴族令嬢だ。昔からそれとなく知っている人もいれば、高等部から知り合った人もいる。しかし、このクラスにヴィクトリアが気を許せるくらいに仲のいい友人はいないのだ。最終学年でクラスが分かれてしまった。おそらく、コネクションを一つでも増やせという学園側の配慮で、ルーカスも違うクラスだ。
ヴィクトリアは、学友たちのキラキラ……いや、爛々とした目に、頬をひきつらせるのを一生懸命我慢せねばならなかった。
「え、ええと……」
学友たちは、話題に常に飢えていた。貴族令嬢や夫人とは、いかに早く情報を掴むか、その手腕が家や夫の発展や出世にかかっている。自身で身を立てたり事業を行う人ももちろんいるが、そうであっても話すのが苦手だなんていうはずがない。更に情報は彼女らの退屈すらも紛らわせてくれる。学友らもご多分に漏れず、話し好きだし噂好きだ。話し方を間違えば、ひどく面倒なことになるとヴィクトリアは正確に理解していた。
適当に濁そうとヴィクトリアが曖昧な笑みを浮かべたところで、教室に大声が響き渡る。
「ヴィクトリア! 昼食を食べに行くぞ!」
相変わらずの大音量に、ヴィクトリアは思わず「煩い!」と怒鳴りそうになったが、それをどうにか堪えた。
「何をしてるんだ、早くしてくれ。席がなくなるぞ!」
何故か、学友たちから「きゃー!」という黄色い歓声があがる。こっちの方が煩いと、ヴィクトリアは突発的に耳を塞いだ。そして誰にもバレない内に、そっとその手を下ろす。
「では、皆さん、後で」
「ええ、後で!」
「是非、後で!」
“後で”なんかない。ヴィクトリアは曖昧に微笑みながら、ルーカスと共に教室を後にした。
―――
食堂に向かう途中の廊下で、人がいなくなったのを見計らいヴィクトリアはルーカスの腕を掴んで柱の裏に引き込んだ。
「もう、ルーカス! 貴方のせいで変な注目を浴びちゃったじゃない!」
「婚約者同士が一緒に登校して一緒に昼食をとるのはおかしな話じゃない」
「……それはそうだけど。でも、今までやってなかったことをいきなりやると、変な噂がたったりするかもしれないし」
「じゃあ、変な噂がたてられなくなるくらい一緒にいればいいんじゃないか? 大体、昼食は今までだって一緒に食べてただろう?」
「それは、でも、迎えに来たことなんてなかったじゃない。カフェテリアや食堂でちょうど一緒になった時だけの話でしょう」
「そうだな、それ以外はお互い友人と食べていた。だからこれからは迎えに行く。勝手に先に行くなよ、ヴィクトリア?」
「……別に、いいけど」
いいけど、いいのだろうか。ヴィクトリアは何となく上手く丸め込まれた気がして釈然としない。昔からルーカスは突拍子もないことばかりする人だったが、子どもの頃から頭はよかった。ヴィクトリアはいつもルーカスを注意しているつもりでいるが、その実、やり込められてきた記憶だってそれなりにある。
まあ、確かに別に困ることじゃない。でもやっぱり何か、釈然としない気がする。ヴィクトリアがそうやって眉間に皺を寄せて考えこもうとしているのに、ルーカスはもう話は終わったと柱の裏から出ていってしまった。ヴィクトリアも慌ててその後を追いかける。
「で、何食べる? 僕、鶏肉入りオムレツとパンとプディング」
「野菜を食べなさい。私はスープと根菜サラダにしようかしら」
「肉を食えよ」
「夜に頂くからいいの」
「駄目だ、せめてプディングを食え。動物性たんぱく質を採れ」
「じゃあルーカスはせめて野菜ジュースを飲みなさいよ」
「……分かった」
「やだ、すごい顔しないで」
野菜が苦手なルーカスが顔をぐしゃりと顰めるのを、ヴィクトリアは笑った。もうさっきのモヤモヤとした気分はなくて、これは彼の人徳なのか作戦なのか判別しかねた。
―――
二人が登下校や昼食を一緒にするようになって一ヶ月が過ぎた頃には、あれだけ騒いでいた学友たちももうそれが当然かのように受け入れていた。未だに『あらあら、まあまあ、うふふふ』みたいな雰囲気の視線を投げかけられるが、ヴィクトリア自身ももう慣れたので気にしてはいない。
しかし恒例の二人のお茶会で、またルーカスが騒ぎだした。
「さて、一ヶ月が経ったなヴィクトリア!」
「煩い」
「煩くない! そこのチョコのやつくれ!」
「はい、どうぞ。それで? 一ヶ月が経ったから止めるの?」
「止めてどうする! 第二段階に進もう! ……と、思うんだが」
「どうしたの?」
元気いっぱいに騒いでいたルーカスは、何故かいきなりに小声になった。
「第二段階は、間違えるとかえって好感度が下がる可能性があるらしいんだ……」
「それってどんなこと?」
「て、てを」
「テテオって?」
「テテオじゃない、手だ、手!」
ルーカスは手の平をぐいとヴィクトリアの目の前に出した。小声からいきなり大声を出さないでほしいとヴィクトリアは思ったが、それを抗議すると彼はまた「煩くない!」と叫ぶだろうから一度は我慢することにした。
「ああ、手。手がどうしたの?」
ルーカスは彼にしては珍しく、もにょもにょと言いづらそうにしていた。どんな無理難題を言うつもりなのだろうとヴィクトリアは警戒していたが、次の言葉に拍子抜けをすることになる。
「手を、つなぐんだ……!」
「ああ、うん、それで?」
「反応が薄くないか!?」
「だって、手なんてもう沢山つないだでしょう?」
それこそ飽きる程につないだ。今でこそ、これだけはきはきとしているヴィクトリアだったが、子どもの頃はどこかぼんやりとしていることも多く、その世話をルーカスが焼くこともあったのだ。
初等部の始めの頃なんて、ルーカスに手をつないでもらえないと学舎内で迷うことすらあった、とヴィクトリアはいらない記憶まで呼び起こしてしまい軽く頭を振った。
「あの頃は子どもだっただろうが! よく考えてみろ、知らない奴にいきなり手を握られて『愛している』なんて言われたら通報案件だ! 小説でもヒロインに勝手に惚れた当て馬キャラが、ヒロインの許可なく勝手に触れてヒーローに成敗されるシーンがあるだろう!?」
「はあ……」
「物理的接触は一定の好感度がなければ、むしろ嫌悪感や拒否反応を引き起こす可能性も高い。わりと危険度の高いことなんだ」
「いやでも、私たち学園を卒業したらすぐに結婚が決まっているし……」
非常に今さらである。結婚をすれば手をつなぐ以上のことをして、子どもを作らなければならない。貴族同士の結婚に子どもはつきものだ。まあ、養子というものもあるが、血を繋ぐという意味でも夫婦の子どもはいるにこしたことはない。
貴族らしい考えを言うヴィクトリアを、ルーカスはどこか恨めしそうに見る。
「……」
「何よ」
「僕たちは貴族の家に生まれたから、結婚が決まっている。そこに僕たちの意志はない。結婚をして子どもを作って、国と領地と領民を守っていかなければならない」
「……そうね」
「でも僕は恋がしたい」
「……」
「嫌われるのは嫌だ」
何故、嫌われることが前提なのか。残念ながら、貴族の中には確かに不仲な夫婦もいる。不仲であるが離婚を認められず、義務で子どもを作り、その子どもすら放置するという問題はどうしても起こりうる。その為の学園だ。子どもが不当に扱われていないか、貴族としての教育を受けられているか。学園にはその精査を行う人もいる。
平民の子も同じで、どのような理由があっても必ず国が作った平民用の学園に中等部までは通わなければならない。この国は、子どもを宝だと位置付けている。では学園という制度に何の問題もないのかと問われれば、それはまた別の話になるのでここではやめておこう。
話は戻るが、ヴィクトリアは別にルーカスのことが嫌いではない。好きかと聞かれれば、好きだと答える。その好意が恋なのか友愛なのかは置いておいて、今までずっと一緒に過ごした自身をそんなに疑うことはないじゃないかとヴィクトリアはムッとした。ムッとしたままに、手を差し出す。
「じゃあ、はい」
「? 何だ?」
「とりあえずつないでみましょうよ」
「え!?」
「煩い、え、じゃない。大体、エスコートだってダンスだってしてきたのに、今さらなのよ」
全くだ。ヴィクトリアは言いながら、本当にそうだと思った。まだ成人していない二人だが、成人前の貴族子女も参加するパーティーに出席することはある。子どもの頃からずっと婚約をしている二人は、何度もパートナーとして参加してきたのだから。
そうだというのに、ルーカスはまだもじもじとしている。いい加減、ヴィクトリアは苛々としてきた。
「だ、だって、ヴィクトリア……。エスコートもダンスも、そもそもそういうものだ。儀式的な、そういうもんだ。でも、何もないのに手をつなぐっていうのは、いろいろ違うっていうか」
「あらそう、じゃあ、止めておきましょう」
「何で!?」
「煩い!」
「煩くない!」
「するの、しないの、どっち!?」
「する!」
売り言葉に買い言葉みたいな感じで、ルーカスはヴィクトリアの手に触れた。テーブルの上でもちゃもちゃと絡めた手が、よく分からない形でつながっている。
「……」
「……」
二人は黙り込んでしまった。言い出したはずのルーカスは何だか微妙な顔をしているし、ヴィクトリアはこの変なつなぎ方があっているのかの方が気になっている。
「手のつなぎ方は、これであってるの?」
「あってる。恋人つなぎというらしい」
「それで?」
「そ、それでって?」
「ご感想は? 嫌悪感とか拒否反応とかがあるの?」
「ないよ、そんなの。僕は男なんだし、そういうの感じるのって女性の方だろ」
「そんなこともないと思うわ。それこそスラッシュ先生の前作には、ヒーローがヒロインじゃない女性に迫られて吐き気を催すシーンがあったじゃない」
「……そうだった。でも、僕はないよ、そんなの。ヴィクトリアは?」
「私もないわよ、そんなの」
「ほ、本当か、無理してないか? 無理が一番駄目なんだぞ!?」
「ないってば!」
ヴィクトリアが強くそう言い返すと、ルーカスはいつもの調子を戻した。
「そうか。……じゃあ! これからは一緒にいる時は手をつないで過ごそう!」
「学園では駄目よ!?」
「む、では、登下校の馬車の中だな!」
「それなら、まあ、いいわ」
別に困ることじゃないし、とヴィクトリアは頷く。頷いた後に、そういえばルーカスの手が随分大きくなったことに気付いた。
―――
登下校の馬車内で、二人が手をつなぐようになって一ヶ月が経った。きっとそろそろまた何か言い出すのだろうとヴィクトリアは感づいていたけれど、ルーカスが言い出すまでは待つことにした。
今日も今日とて二人はお茶会である。こうしていると四六時中一緒にいるような気がしてくるが、決してそうではない。ヴィクトリアにはヴィクトリアのルーカスにはルーカスの交友関係や学び、趣味があり、学内や休日もずっと傍にいる訳でもなかった。
だからこそ、登下校や昼食を一緒にすることで二人は以前よりも共にいる時間が増えた。結婚前のいい心の準備になっただろう。最近、ヴィクトリアはそういうふうに思うようになっていた。
「さて、また一ヶ月が経ったなヴィクトリア!」
「そうね、ルーカス。それで、次はどうするの?」
「次は吊り橋効果なるものを試したい」
「ああ、初めに言っていたやつね。それで吊り橋効果って何?」
「鼓動の高鳴りには種類がないそうだ。恐怖だろうと息切れだろうと恋愛だろうと、ドキドキはドキドキだ」
「……身も蓋もないのね」
「それは僕も思った」
恋愛小説好きのロマンチストなルーカスには、あまり受け入れたくない事実だったのだろう。ヴィクトリアが野菜ジュースを飲むように言ったいつかのあの日のような顔をしている。
「で、どうするの?」
「今回に限っては案がない!」
「あら、どうして?」
「領地ならいざ知らず、王都のこの辺りには吊り橋なんてない。危険な場所という意味ならあるにはあるが、ヴィクトリアを連れて行けるはずもない。僕自身だってそういう場所に行くのは賢明ではないしな」
「ううん……。恐怖でもいいのよね?」
「そうだな」
「劇場で今やってる演目が確か、死後の世界の話だったはずよ。見に行く?」
「よし! 行こう!」
がたん! と、勢いよく立ち上がるルーカスにヴィクトリアは苦笑する。
「ちょっと、ルーカス。今からはさすがに無理よ、チケットが取れないわ」
「は、そうか……!」
「そうよ。まだ期間はあるから、チケットが取れたら行きましょう」
「そうだな、そうしよう!」
ルーカスは椅子に座りなおしてヴィクトリアの手をとる。恋人つなぎも慣れたものだ。計画が実行にうつせそうだからか、機嫌よさそうににこにこと笑いながら話を続けるルーカスを見て、ヴィクトリアもくすりと笑った。
―――
放課後の学園の図書室で、ヴィクトリアは珍しく一人でいた。彼女は一人でいることに大きな苦痛を感じない性質ではあったけれど、最近学内では授業時間外はほとんどルーカスと一緒にいたので不思議な感じがする。
ヴィクトリアはルーカスに友人と話があるから待っていてくれと、言われたのだ。途中まではヴィクトリアの友人も一緒に待っていてくれていたが、遅くなりそうだからと帰ってもらった。
外はもう真っ暗で、さすがにそろそろ帰った方がいい時間だ。学園には一日中職員が常駐しているが、学生が夜遅くまでいていい訳ではない。司書に声をかけられる前に、ヴィクトリアはルーカスを探しに行くことにした。
「(チケットを譲ってもらえたのはいいけど、そんな時に限ってルーカスったら。……いえ、仕方ないわね。というか、普通のことよ。ここ数ヶ月が異常だっただけだわ。待たずに帰るのだった。でも、ルーカスが帰らないで待っていてくれって言うから……)」
心の中でぶちぶちとルーカスを詰りながら、ヴィクトリアは友人に貰ったチケットを鞄から取り出した。それは、ルーカスがお茶会で行こうと言っていた死後の世界を主題にした演劇のチケットだ。喜んでもらえるだろうとわくわくしていた気分がしぼんでいく。
「(……でも、もう暗いわ。学園の職員の方に伝言を頼んで帰った方がいいかしら)」
チケットを鞄にしまって、ヴィクトリアは談話室の方へ向かってみるが、人の気配はしない。学園には談話室がいくつかあるから、別の場所か教室で話している可能性もある。しかしこのままルーカスを探して、これ以上遅くなると使用人たちに心配をかけるだろう。ヴィクトリアは諦めて出入口の付近にある職員室へと向かった。
その途中に大声が聞こえて驚いたヴィクトリアは、いつかのようにさっと柱の裏に隠れてしまった。
「ああもう! しつこいぞ、君たち!」
「そう言うなよ、ルーカス! 俺たちはお前のことを思って言っているんだぞ!?」
「そうだよ、ルーカス。最近の君は以前よりも輪をかけておかしい。ハミングバード伯爵令嬢に何か弱みでも握られてるのか?」
「……どういう意味だ?」
隠れたことを、ヴィクトリアはとんでもなく後悔した。言い合いをしているのは、ルーカスとニコラス・スワン、マシュー・ストークだ。ニコラスは侯爵家、マシューは伯爵家の子息で、初等部の頃にはヴィクトリアも一緒に遊んだ記憶がある。けれど中等部の終わりごろから、二人は学内でよくない噂をたてられる側の人になってしまっていて、更にはクラスも同じにはならなかったから彼女と彼らは自然と疎遠になっていた。
それでもルーカスは、高等部の途中までは彼らとの交友関係を切ってはいなかった。特に彼とニコラスは再従兄弟で親戚だ。あまりいい噂を聞かない二人にも、にこやかに話しかけてもいた。けれどいつからか、廊下ですれ違っても立ち止まって話すことがなくなった。そうであったから、ヴィクトリアは三人の縁がほとんど切れているのだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。
「だって、お前、どんなに誘っても俺たちとの“勉強会”に参加しないじゃないか」
「ああ、“勉強会”とは名ばかりのお喋り会のことか? 知らない女性がわらわらと参加してくるだけで何の意味もないから行かないだけだ。僕は“紳士会”には参加している。それよりも、ヴィクトリアがなんだって?」
「だ、だから、ハミングバード伯爵令嬢に『行くな』と言われて困っているのではないかと」
「何故?」
いつものような騒がしさはなく、淡々としかし強い口調のルーカスに、二人は一瞬たじろいだ。けれど、マシューはこれが本題だとばかりに話しだす。
「何故って、だから、君の自由を奪って……」
「僕は、生まれた時から自由であったことなんてない。何故なら僕は貴族だからだ」
「そんなの俺たちだって!」
「そうかな、僕には君たちがひどく自由にのびのびと過ごしているように見える。そういう教育を否定はしない、そんなものは家庭で違うからな。だが僕は違う、一緒にしないでくれ」
「ふざけるなよ! 俺たちだって苦しめられてる!」
「何に? 勉強をそこそこに街へ繰り出して、平民や下級貴族の女性を侍らせる余裕のある人間が苦しむ理由が僕には分からないね」
柱の陰に隠れているヴィクトリアの背筋まで凍ってしまいそうな声だ。ヴィクトリアは、聞いたこともないルーカスの冷たく棘のある言葉に動揺して鞄を抱きしめた。
しかし、ニコラスはルーカスの分かりやすい挑発に激高した。
「重圧を感じて程々に息抜きすることの何が悪い! どうせ、学園を卒業したら嫌でも結婚させられて、やりたくもない仕事をさせるんだ! 今くらいしか仮初の自由を楽しめないじゃないか!」
「ふうん、好きにするといい。だが、その話を聞いて僕は余計に君たちの“勉強会”とやらには参加したくなくなったよ。二度とその話題で僕に話しかけないでくれ」
再び背を向けるルーカスを、マシューが慌てて呼び止める。ここでルーカスを逃がせば、ニコラスの不機嫌はマシューにぶつけられるから彼も必死だった。
「ルーカス、こちらは好意で誘ってやっているんだぞ。それを」
「いらない好意だし、いらない親切だ」
「お前っ、伯爵家風情が侯爵家の俺にたてついていいと思っているのか!?」
「おっと、驚いた。都合が悪くなると苦しめられている“家”を出してくるのか。恥も外聞も無いな」
「なんだと!?」
「や、止めないか、二人とも。もっと落ち着いて話を」
「話すことなどない」
「ルーカス! 君も落ち着けよ。昔から恋愛小説や観劇が好きな変わり者の君だけど、少しは嗜みとして遊ぶことを覚えるのも大事で」
したり顔のマシューに、ルーカスは嘲笑を返す。
「へえ、遊びで病気を移されないようにな」
ぴたりと、その空間の時が止まった。そんなふうに感じられるくらいには、ニコラスとマシューが止まって見えたのだ。ルーカスはひくりと口元を動かした。まさかさすがにな、と思いながら。
「……病気?」
「おいおい、まさか、何の危機管理もしてないんじゃないだろうな」
「し、してるに決まっているだろう。子どもができないようには、ちゃんと」
「呆れたことだ! 天下のスワン侯爵家様ではその程度のご教育もされていないとは! ちなみに性行為で移るのは性病だけではないぞ。性行為を最後までしていなくとも移るものもある。まあ、性病でも放っておけば死に至るものもあるがな」
「……」
「……」
「おい、まさか……。本当に呆れたな。君たち、そんな汚い体で結婚をするつもりだったのか? 相手のご令嬢に悪いと一切思わなかったのか? 義務だから? 相手だって義務だ! その義務で仕方なく結婚するのは相手だってそうだ! 初等部ならいざしらず、ここは高等部だぞ! もう数ヶ月で卒業するんだぞ!? ……君ら、昔はそんなじゃなかったのにな」
ルーカスの声には、落胆と軽蔑が混じっていた。ヴィクトリアには、その声だけでルーカスがひどく気落ちしているのが分かる。きっとどうしようもなく悲しいのだということが分かってしまう。今すぐ飛び出してルーカスの手を取り「帰りましょう」と言いたかったのに、けれどヴィクトリアの足は竦んだままで動かなかった。
ヴィクトリアが柱の裏でそんなふうに思っていることを知らないルーカスは、ぐっと拳を握りしめかつての友人を見据えた。
自身で意図して疎遠になったが、ルーカスにとって二人は友人のままだった。遊び惚けているのは知っていたし、止めることはできなかったが止めるようにも言ったことがある。まあ、学生の内だけだ。流れている噂は酷いが、噂は噂。さすがに分別くらいはついているだろうと、軽く言った皮肉にこうまで動揺するのならもう二人は駄目だ。
何が駄目って、高等部の最終学年で未だにそれをし続けていることだ。恋愛結婚が許されない貴族だからと子どもができ次第、淫蕩にふける人もいる。愛人を囲う人もいる。同意のものであるのならば、それを罰する法はない。子どもさえできればいいのは、今も昔も変わらない。
しかし、この分であると二人が何らかの病に侵されている可能性は少なくない。病気によっては子どもができるかも怪しければ、結婚相手に移す可能性も高い。結婚前であるならば、そんな婿、願い下げなのである。婚約解消どころか、有責での破棄もあり得る。
両家間の話になるので確実とは言い切れないが、どちらにしろ何かしら条件を付けられてもおかしくない。少なくとも、訴えれば現王室は認めるだろう。憂さ晴らしの為に自身を危険に晒し、更には自家にも損害を与えようとしている。それがどれだけの人を不幸にするのか。彼らはその程度も考えようとしていなかった。それを確信して、ルーカスは失望したのだ。もう、昔に勇者や英雄になりきって悪を倒そうと一緒にごっご遊びに興じた彼らはいないのだと。
「う、煩い! 自分は女の尻に敷かれているくせに!」
「ほう、例えば?」
「それはっ、だから、毎日、登下校を迎えに行ったり、送ったり……。昼食! 昼食だって言いなりで一緒に食べているんだろう! もはや奴隷じゃないか!」
「奴隷の定義は? 奴隷は百年は前に廃止された悪しき制度だが、まさか奴隷がこんなに上等な仕立ての制服を着て、この学園に通えるとでも? そもそも僕たちが一緒に行動しているのは僕の提案だ。それをヴィクトリアが許してくれている。僕たちは君たちのように義務を放棄して奔放に生きてはいない。定められた結婚と未来を、よりよいものにしようとしているだけだ」
「……だからそれはっ」
「もういい時間の無駄だ。僕は帰る」
話すだけ無駄だ。情など切り捨て、スワン侯爵家とストーク伯爵家との今後の付き合いについて、両親に相談をしなければらない。ルーカスは冷静にそう切り替えて踵を返そうとしたが、それをニコラスは許さなかった。
「……クレイン伯爵家なんて、取り潰してやる」
「お、おい、ニコラス……」
「へえ」
「俺に恥をかかせた! 理由はそれだけで十分だ! この恋愛小説好きの変態野郎が! 後悔したってもう遅いんだからな!」
後悔するのはお前だと、ルーカスはもういっそのことニコラスを憐れに思った。そんなことを言ってただで済むと信じているのなら、一体この学園で何を学んだのか。マシューが仲裁に入ろうとしているが、それに対しても正気を疑う。二人とも、昔は本当にこんなふうではなかったのに。
ルーカスは既に彼らの相手をする気がなくなっていたが、ヴィクトリアの隠れている柱の方からきた人は、そういう訳にはいかなかった。小走りでやって来たその人は、小さく震えているヴィクトリアを見つけると「大丈夫、ここにいなさい」と彼女に告げて三人が対峙している場に出ていった。
「恋愛小説好きの変態野郎か……。随分な言い草だね?」
軽やかで、けれど同時に重みのある矛盾した声の持ち主は、この国の王太子だった。思いもよらない人の登場に、ルーカスに対してがなり立てていたニコラスが叫ぶ。
「え、な、何故、ここに、王太子殿下が!?」
「何故って、私はここの名誉理事長だよ? たまに巡回することもあれば、会議の為にわざわざ出向くこともある。未来ある若者は国の宝だからね。それで、恋愛小説好きの変態野郎って私への言葉かな? すごく悲しいなあ」
「と、とんでもない! 決して、そのような!」
ニコラスはさっきまでの威勢をどこかへやってしまったかのように、背中を丸めて不格好に頭を下げた。マシューの足も震えている。先ほどの発言を聞かれてしまったのだから、無理もないだろうが非常に滑稽だった。
「そうなの? でも、私も恋愛小説は好きだよ。そうそう、ルーカス。スラッシュ先生の新作はもう読んだ? あれよかったよね!」
「そうですね、とてもよかったです!」
にこやかに小説の感想を言い合う王太子とルーカスを、ニコラスたちは信じられないとばかりに目を見開いた。王太子とルーカスがこんなにも気さくなやり取りをするような仲だなんて、聞いていない。
当たり前のことだ。彼らは元々情報に疎かったし、ルーカスはやっかみを避けて王太子との仲を大々的に公表はしていなかった。王太子もルーカスの意図をくんでくれていた。
男性で恋愛小説が好きな人の人口は残念ながら少ないが、いるにはいる。語りたいが女性の輪の中に入るのは気恥ずかしいから避けたい、という者も多い。王太子はひっそりとそういう人を集めた小さなサロンを開いており、ルーカスもそれに参加しているのだ。
「時間がある時にまた話そう。今はそれよりも、そちらの君たちへの授業が先かな?」
「じゅ、授業ですか……?」
「どのような……?」
仕切り直しだと王太子がニコラスたちに視線を戻す。
「まず、貴族家の取り潰しだが、そんな権限を侯爵家のどれかが持っている記憶はないな。取り潰しとは重大な犯罪を行った時のみ、貴族院での賛成多数、それも五分の四以上が賛成をした場合のみに行われるもので、そもそも軽々しく使う単語ではない。貴族が家門を失うということが、どれ程のことなのかも想像できないなら、一度体験してみるかい?」
王太子の声には感情の色があまり乗っていない。怒っているようにも聞こえるし、あるいは弱い者虐めを楽しんでいるようにも聞こえる。
「噛み砕いて言うとだね、まず、君の両親、祖父母、兄弟、妻や子どもがいれば妻子も。直系の人間は全て屋敷から放り出される、着の身着のままでね。さすがにそのままだと一瞬で野垂れ死ぬから、向こう半年分を暮らせる金銭は渡すが、それも平民の暮らしでの最低金額だ。王都からは追放され、生きている間は立ち入りを禁止される。そういう人を憐れんで手を差し伸べる領主もいるにはいるけれど、元々そうとうの罪人一家だからね。ほとんどないと思った方がいい」
淡々とした王太子の言葉は事実だけでできており、やはり感情が読み取れない。微笑んでいるように見えるのに、威圧感を痛いくらいに感じてニコラスたちは震えを抑えきれなかった。
「記録によると、大昔に取り潰された一家は渡された金銭をすぐに使い果たして途方に暮れた上で飢え死ぬことが多かったそうだ。生き残ったらしい人もいたそうだけれど、外国に出稼ぎに行ったり過酷な労働に従事したらしいことが残されているよ。殺しはしないけれども、積極的に生かしたりもしない。そういう処罰なんだよ、この国での取り潰しとは。君は、君の一存でそんな大それたことをするつもりだったのかい?」
「そ、それは……」
「身の程を弁えたまえ。君ごときに、個人や、まして一門を裁く権限などはない。これまでも、これからも、だ」
「……はい」
「それと、一応、取り潰しって直系だけのことだが、親戚にだってその余波はある。取り潰された一家の親戚だ、ってね。君確か、スワン侯爵家の子だろう? ルーカスとは再従兄弟だったじゃないか。クレイン伯爵家がまかり間違って君の言う通りになったとしたなら、君の家だってただではすまないよ」
「……」
「あまりにも勉強が足りていないな。そっちの君はストーク伯爵家の子だね。少しは分かっていたみたいだけれど、緊張感がないな。こんな場にいて、止めれる位置にいながら止めないなんて、スワン侯爵家の子に同調していると思われるよ? 当たり前だけれど、さっき彼が叫んだことは脅迫という立派な犯罪だからね?」
王太子は授業というに相応しい話を終え、ふうと息を吐いた。ニコラスたちは黙ったままで、ルーカスはそんな二人を呆れながら見ていた。
この程度で怯えて喋れなくなるのなら、初めから社会に適応していく努力をすればよかったのだ。貴族の家に生まれてその特権の恩恵を受けていながら、ぐだぐだと文句しか言ってこなかったからこうなっていることを、彼らは分かっているのだろうか。
「それから、私も恋愛小説が好きだ。その縁でルーカスとは仲良くしているんだよ」
王太子はルーカスに向かってにこりと微笑み、ニコラスたちには分かりやすく苦い顔を見せた。
「君たちは若い。若く青すぎる。反発したいという気持ちは私にだって覚えがあるが、高等部でしかも卒業間近の生徒となると話が違ってくるんだ。後、“勉強会”だったかな? 勉強とは名ばかりの会が学園の風紀を乱していると、職員会議でも問題になっているんだけれど、どうやら君たち二人はその主要メンバーみたいだね。少し話を聞かせてもらおうか、ついておいで」
「はい……」
「はい……」
そう、王太子はこの日、最近の風紀の乱れを問題視した職員たちに呼び出されて職員会議に参加しに来たのだ。この議題は何度目かで、けれど規制をかけて抑圧すればする程にもっと大きな問題を起こしかねないと、会議は遅々として進んでいなかった。ではこれは、何のための会議なのかと王太子は多少イラついていたが、それを悟らせることはなかった。
子どものやることだと鷹揚に構えていた者も実は多かったのだが、しかし、これはさすがに教育の敗北と言えるだろうと王太子はため息を吐いた。そして、思い出したようにルーカスを振り返る。
「ああ、ルーカス!」
「はい! 何でしょう、殿下!」
「早く迎えに行っておやり、可哀想だよ」
「? ……はっ! 承知致しました、殿下! 失礼致します!」
一瞬、王太子の言っていることが理解できなかったルーカスだったが、ヴィクトリアのことを思い出して慌てて図書室へ向かおうとした。したが、廊下を曲がった柱の裏に隠れていたヴィクトリアを見つけ、比喩ではなく本当に飛び上がって驚いた。
「おわ! こんなところにいたのか、ヴィクトリア! 図書室で待っていてくれって……ぇ、あの、ヴィクトリア?」
ヴィクトリアは両手を握り口元にそれを当てて、小さく震えていた。
「ごめんなさい……」
「ど、どうしたんだ、ヴィクトリア?」
「わ、私、怖くて、助けに行けなくて、で、殿下が、ここにいなさいって言ってくれて、行かなきゃって思ったのに……っ!」
ヴィクトリアは、わっと泣き出した。張りつめていた緊張の糸が切れてしまったのだ。ルーカスとあの二人の会話も怖かったし、王太子も怖かった。けれど、それだけでなく、自身に助けに行くだけの勇気が出なかったことが、ヴィクトリアにとっては何よりもショックだった。
ヴィクトリアは自身は気が強く、どんなことにも物怖じせずにいられると信じていた。それがルーカスを助けにも行けずに、こんなところで隠れているだけだった。今もこんなふうに泣いて、情けないにも程がある。でも止まらない涙に、ヴィクトリアはどうすることもできなかった。
「泣くな、ヴィクトリア! あーえーあー! 花! いや、星! 星を見に行こう、ヴィクトリア! きっと綺麗だから! 月も綺麗だぞ!?」
ヴィクトリアの涙に、ルーカスはひどく慌てた。もう自分が何を言っているのかも微妙に理解できていなかった。さっきまで冷静にニコラスたちと対峙していた人と同一人物だとは思えない狼狽え方で、ヴィクトリアも泣きながら静かに驚いた。
「……」
「なぁ、だから、泣き止んでくれ! 僕はヴィクトリアに泣かれたら、どうしたらいいのか……」
「……ルーカスって、私が泣いてると、いつも最後は一緒に泣いちゃうのよね」
「う、だ、だって、君が泣き止まないから。それにそれは子どもの頃の話で」
子どもの頃、二人はそれなりに泣き虫だった。ルーカスが泣いた時にはヴィクトリアが泣き止ませることができたが、その反対はできないことが多く、途方にくれたルーカスまで一緒に泣くという現象が起きた。
ルーカスは慰めるのが下手だった。今もそうなのだなあと、ヴィクトリアは何故か少し安心して泣きながら小さく微笑んだ。
「こういう時は、きっと、抱きしめるのよ。物語の主人公たちはそうしているでしょう?」
「え!? いや、でもそれは! いいのか!?」
「嫌なの?」
「嫌じゃない!」
そう叫んだルーカスは、ぎこちなくヴィクトリアを抱きしめた。ダンスの時にはこんなにもぺったりとくっつくことはない。そのことに気付いて、二人の心臓が少し騒がしくなったけれど、二人ともあえてそのことには触れなかった。
「……」
「……」
「あの、ヴィクトリア、さん?」
「私」
「うん!?」
「ルーカスの婚約者でよかった……」
「ぇ」
「貴方にもそう思ってもらえるように、頑張るわ」
今回の件で、ヴィクトリアはしみじみとそう思った。以前からルーカスに不満なんてなかったが、ヴィクトリアが考えていた以上に、彼は彼女のことを大事にしてくれているらしかった。
たまたま婚約者に選ばれただけだから、相手がヴィクトリアでなくてもルーカスはそういうふうに接したのだろう。けれど、どうせならルーカスにもヴィクトリアでよかった、と思ってもらいたい。ヴィクトリアはルーカスの肩に頬を寄せながらそう言った。
「……僕は、もう、ずっと前からそう思ってるよ」
ルーカスは、ぼそりと呟いた。いつもの快活さが嘘のような声に驚いてヴィクトリアの涙が止まる。
「ずっと前って、いつ?」
「僕が絵本やおままごとを好きだった時から、ヴィクトリアはそれを一度も馬鹿にしなかった。そういう遊びから卒業した後も恋愛小説を好きになった僕を、君は嫌がらなかった。僕はそれが、ずっと嬉しかったんだ」
確かにルーカスは、よく女児が好むといわれているような遊びをしたがった。ヴィクトリアはむしろそれが嬉しかったのを覚えている。とはいえ、ルーカスが男児の好む遊びをしなかった訳ではない。彼はいろんなことに興味があり、いろんな遊びを楽しめただけだ。
「そんなの、別に普通だもの……」
「うーん、ヴィクトリアはそう言うけれど……。君って普通じゃないんだよなあ……」
「ねえ、ちょっと。どういう意味それ」
何か話が変な方向に向かっているとヴィクトリアは抗議した。ルーカスはそんなヴィクトリアに笑ってみせる。
「ふはは、まあ、そんな普通じゃない君が結婚相手で嬉しいって意味だよ!」
「台無し! いろいろ台無しよ!」
「さあ、もう帰ろう! きっと迎えも待ちくびれてるよ!」
「あ! ちょっと、ルーカス!」
ルーカスはヴィクトリアの手をとって早足で歩きだした。確かにもう遅い時間だ。屋敷の者たちも心配しているだろう。それに対して反発することもできず、ヴィクトリアはルーカスについて行くしかなかった。
―――
あれから、“勉強会”というものに参加していた生徒たちは、王太子直々のお叱りの書状を受けることとなった。ニコラスとマシュー、それから他の主要メンバーは何と、高等部を一年生からやり直しなのだという。とてもじゃないが、成人とは認められない、という判断だった。しかし、未成年だということもあり更生の余地ありとしての処罰だ。その他にもいろいろとあったが、ルーカスとヴィクトリアには直接の関係が少ないので割愛しよう。
さて、二人はヴィクトリアが友人に譲ってもらったチケットで、舞台を見に来ていた。幕が下り、二人は馬車に乗り込む。
「で、ヴィクトリア! ドキドキしたか!?」
「ドキドキっていうよりも、ぞっとしたわ……」
「僕もだ……」
心拍が上がったというのなら、あるにはあったかもしれないが、それよりもどこか底冷えのする恐怖で精神衛生的にあまりよろしくなかった。舞台としての完成度が高かったせいもあるだろう。二人の背筋は凍り付いたままだ。
「ふむ、吊り橋作戦は駄目だったな。よし、ヴィクトリア! 次もどんどん試して行こう!」
しかし、ルーカスはめげない。彼はヴィクトリアと恋がしたいのだ。大好きな恋愛小説のような恋を。いつものように快活なルーカスに、ヴィクトリアもいつものように笑った。今日もこれからクレイン伯爵家の屋敷で、二人の恋についての作戦会議だ。
「ふふ、そうね。でも、ルーカス、最近私たちがどんなふうに言われているか知ってる?」
「え? 何か言われているのか?」
「ええ、理想的なお二人ねって!」
読んで頂き、ありがとうございます。
テーマは「キスさえしない爽やかな学生恋愛」だったような気がします。爽やか、かな? ルーカスもヴィクトリアも好きなキャラクターでした。書いている時、楽しかったです。
言語化できていないだけで、二人はちゃんとお互いのことを思い合っています。ただヴィクトリアの方は初めの内、家族愛とか親愛とかそちらの割合が多かったのでしょう。二人は貴族の義務や責務に真面目なので、それだけでも上手くいったでしょうが、ルーカスは恋愛脳なので恋愛がしたかった。ヴィクトリアとしたかった。
いいタイミングで出て来た王太子の恋愛小説好きは王太子妃の趣味からきています。薦められて読んでみたら面白かった。ルーカスと知り合ったのは偶然でしたが、ルーカスの考え方や知識は臣下として使いやすいなあ、と思っています。上手くいけば重用してもらえるかも、やったね!
王太子は今回の件で学園のシステムやら教職員やら一斉に弄りたい欲が高まりました。未来ある宝(公僕であり働き手)をむざむざ非行に走らせて自浄もできない組織とかいる? 学園の運営に毎年いくら費用がかかってるか知ってる? もうキレそう。まだ我慢できるけど、王太子キレそう。国王は学園に関してはノータッチ。それは王太子の仕事です。やりたきゃ上手くやれ。
全然出しませんでしたが、二人の家族仲は良好です。ルーカスは長男で一人っ子。ヴィクトリアは兄二人に姉一人の年の離れた末っ子です。年が離れているから、ヴィクトリアもほとんど一人っ子みたいなもの。
ニコラスとマシューはまあ、更生できたらいいですね。するしか貴族として生きる道はないんですが、彼らは嫡男だけれども兄弟がいるので、家からは別に卒業できなかったらできなかった時かなあ、くらいにドライに思われています。卒業できたとしてもしばらくはずっといばらの道、まあ、頑張れ。ニコラスは両親の仲が最悪に悪いという設定もあったりします。性病うんぬんは、どうでしょうね、かかってないといいですね。
ルーカスが言っていた心理学うんうんのところは、なんちゃってなのであまり読み込まないようにお願い致します。気になる方はお調べください。心理学は簡単なさわりだけでも楽しいです。
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ここまで読んで頂き、ありがとうございました。




