愛ではなかったけれど
「愛ではなかったけれど」
登場人物
関 なつみ 高校二年生。
関 百合子 36歳 なつみを引き取って育てている。
神保しおり 高校二年生。なつみの友達。
神保美絵子 しおりの母親。
なつみの実の母 19歳
三歳時のなつみ(小柄な役者がいなければ、プロジェクターで投映した画像等でもよい。台詞は声のみ)
施設の女性(声のみ)
舞台を上手下手に分ける。
一場 往来
上手側のみ照明が点く。
街灯が点いている。
なつみの実の母、三歳のなつみの手を引いて登場。右手で携帯電話を持ち、左手でなつみの手を握っている。顔を客席に見せない。
母 孤児院の「あかねいろのいえ」さんですか。いま、三歳くらいの、○色の上着に○色のスカート、○色の靴を履いた女の子がお宅の玄関の外にいます。どうか、保護してあげてください。
施設の女性(携帯から声が聞こえてくる) あなたは…。
母 申し上げられません。
施設の女性 あなた…、自分が何をしようとしてるかわかってるんですか!
母 …わかっています。
施設の女性 保護責任者遺棄! 犯罪ですよ、犯罪!
母 わかってます!
施設の女性 今ならまだ間に合う! すぐにそっちにいきます! あなたもそこにいてくださいね!
母 ごめんなさい…。
施設の女性 わたしに謝ってどうなるんです! 無責任すぎるでしょう!
母、携帯電話の通話を切る。母、一度三歳のなつみをぎゅうっと抱きしめる。なつみを放す。なつみを立たせ、その前にしゃがむ。なつみは客席に正対している。母の顔は客席から見えない
なつみ ママ、だいじょうぶ?
母 なつみちゃん、このあと、知らないおばさんがここにくる。だけど、そのおばさんの言うことをちゃんと聞いてね…。
なつみ ママは?
母 ママは、いっしょにはいられない。だけど、絶対に迎えにくるから! だから、いい子にして待っていて!
なつみ ママ…。
照明が消える。街灯の灯りのみ。
なつみ (明るく、歌うように、ささやくように、気負うことなく、それでいてしっかりと言う)大好きだよ…。
暗転
二場 なつみの家。 朝食中。
下手側に照明が点く。台所兼ダイニング。テーブルが一つに椅子が二つ。狭いところに炊飯器や鍋や食器や戸棚や台所道具が詰め込むように置かれている。決して乱雑ではないがと゛うしても狭い。高校二年生のなつみと百合子がテーブルを挟んで座り、食事をしながら話している。なつみは制服。
なつみ お母さん、今日はしおりの家で夕飯を食べてくるから…。
百合子 なつみちゃん、あんまりしょっちゅう、よそ様の家でご馳走になるのはやめてね。
なつみ ここもよその家みたいなもんだし。
百合子 違うでしょ! ここはなつみちゃんの家でしょ!
なつみ いきなり大声出さないでよ…。ただの冗談なのに。
百合子 冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ!
なつみ はいはい、ごめんなさいごめんなさい…。
百合子 それで、どんなものをご馳走になるの?
なつみ ハンバーグとか、しょうが焼きとか。
百合子 それぐらい、お弁当に入れてあげてるでしょ。
なつみ 冷凍食品だよね。
百合子 とにかく向こうの親御さんには、礼儀正しくしてよ。
ななみ お父さんには挨拶したことがあるよ。お母さんは遅くなる仕事だそうで、まだ会ったことがないけど。
百合子 なんだか、余計に申し訳ないよ。とにかくあんたの家はここなんだから、ここでご飯を食べるのが当たり前だからね。わたしは二箇所でアルバイトをしてるけど、それでも調整して、なるべくあんたとご飯を食べられるようにしてるんだから。
なつみ まあ…、今はいいんだけどさ。高校を卒業したら東京で就職したいんだけど。
百合子 またその話? お願いだから地元に就職して、ここから通ってちょうだい!
なつみ いやっ!
百合子 少しは言うこと聞きなさい!
なつみ お母さん、そんなことを言うんだったら、施設から引き取るときに、もっと言うことを聞く、素直ないい子にすれば良かったじゃない! なんであたしだったの!
しばらくの間。
百合子 (困ったように)まあ…、なんとなく、かな。
なつみ なにそれ! そんなに地元地元っていうなら、あたしだって地元の大学にでも行きたいよ!
しばらくの間。
なつみ まあ…無理だよね。
しばらくの間。
なつみ あたしの成績じゃあ…。
しばらくの間。
なつみ あの施設にはあたしよりも成績のいい子がいたのに。なんであたしを引き取ったの?
しばらくの間。
百合子 (これも困ったように)それも、なんとなく、かな。
なつみ まさか、性格も頭もよくないあたしに同情したから?
百合子 そんなわけないでしょ。
なつみ 本当のお母さんだったら、なつみを東京に行かせてくれたかもしれないのに!
百合子 なつみ!
なつみ なっ、なに…。
百合子 あんたにはね、本当のお母さんなんかいないんだよ!
なつみ もういいよ!
なつみ、下手に退場。暗転。
四場 放課後の教室。
上手側に照明が点く。机椅子が二セットずつ。しおりが机に座り、なつみが椅子に座っている。
なつみ まったく、ウチの親は…。
しおり どうかしたの?
なつみ 絶対に東京には行かせないって。
しおり あんた、東京に行きたいの?
なつみ 行きたい! どうしても行きたい! それでも行かせないって、それで娘を愛してるっていえるの!
しおり さあ? 東京に行かせるか行かせないかの問題でもないような気がするけど。お母さんが、あんたといっしょに住みたいだけかもしれないし。
なつみ だったら、しおり…。
しおり なに?
なつみ 愛って、何だと思う?
しおり なつみ…。
なつみ なに?
しおり キモいよ。
なつみ やっぱり。
しおり どこの親だって、似たようなものだよ。
なつみ そんなことないでしょ。しおりのお父さん、やさしそうじゃん。
しおり なつみはお父さんだけで、お母さんに会ったことはないでしょ。
なつみ お母さん、怖いの?
しおり 怖いっていうより、ウザい。
なつみ どこの親だってウザいよ。
しおり あの人はね、とにかくこうと決めたらだれに何を言われてもそっちに突っ走るんだ。
なつみ それって、いいことじゃないの?
しおり それで、ことが終わってから後悔してたら意味ないでしょ。
なつみ 今日もお呼ばれするけど、お母さんはいないの?
しおり 今日はいると思う。
なつみ なんか緊張するな。
しおり 大丈夫だよ。お父さんなんか、あんたが来るのを楽しみにしてるし。
突然激しい雨音。
なつみ 雨だ…。
しおり 困ったな。今日は傘を持ってきてないや。
なつみ 職員室で借りればいいじゃん。
しおり 職員室の傘って、ビニール傘だし。
なつみ あたしはビニール傘が好きだよ。
しおり なんで? 前がよく見えるから?
なつみ 雨に濡れて、雨粒がたくさん載って、水が下に流れていく、すすけたビニール傘を通して見ると、見慣れた田舎の商店街でも、夢の国に来たような気がする…。
しおり (なつみをじっと見て)……キモい。
なつみ (気を取り直して)ゴールデンウィークに、あんたといっしょに東京に行ったときも雨だったね…。
しおり あのときはさんざんだったよ。服はびしょぬれになるし、靴の中まで水が入ってきてつめたいし。
なつみ スカイツリーの展望台に上ってみると、600メートル上空の、ものすごく広いガラス一面に、雨が叩きつけていて…。
しおり ウチはいやだって言ったのに、なんで雨が降ってるのに展望台なんかに登らなきゃならないの。
照明が落ち、なつみにスポットライトが当たる。
なつみ 目の前から、はるか下の道路まで、一本の雨が通っていくのが幾筋も幾筋も見えて、いつまででも見ていたかった。見下ろすと、たくさんの家が雨風になぶられていて、雲にとどきそうなビルの、高いところが白く煙っていて、こんな大都会でも天気が悪ければ昼でも暗いとかちょっと感傷的になって振り返ると、かわいく着飾ったたくさんの女の子が、にこにこ笑いながら、おしゃれなお店で買い物をしている。かわいらしい雑貨や、たくさんの洋服や、ぬいぐるみやキーホルダーみたいなお土産がいっぱいあって。かっこいい制服を着たきれいな店員さんが、あたしたちみたいな子供にも、やさしく声をかけてくれる。とっても明るい…。みんな楽しそう。みんな幸せそう! だけどこの塔の外では雷鳴がとどろき、風雨が荒れ狂っている! 都会と自然、明と暗とのコントラスト…。
照明が点く。雨音がいつのまにか止んでいる。
しおり 何でそんな、気持ち悪いことしか言わないの…。
なつみ 何なのさっきから、あたしのことをキモいって!
しおり あんたはそんな、気持ちの悪い理由で東京に行きたいわけ?
なつみ だから、気持ち悪いって言うな!
しおり そんな理由だったら、休みの日に行けばいいじゃん。新幹線に乗れば、一時間半くらいでいける場所だし。
なつみ こんな田舎で雨が降ったら気が滅入るだけだけど、東京じゃ違うんだよ!
しおり 進路の関係とかで、どうしても東京に行かなきゃならないとかじゃないんでしょ。
なつみ あんたあたしの担任でも保護者でもないじゃん! なんでそんなに上から目線なわけ?
しおり だったらあんたは、なんで保護者でもない人の家で晩御飯を食べてるわけ?
なつみ そういうのがウエメだっていうんだよ!
しおり あんたがなんで怒ってるのか、ウチにはさっぱりわからない! ウチはあんたをかわいそうに思ってるんだよ! それなのにその態度はなんなの!
間。
なつみ (怒りをこらえながら)……あんたいま、「かわいそう」って言った?
しおり 言ったよ。それがどうしたの? あんたいつも、「あたしは三歳の時に親に捨てられた」とか、「親に捨てられたショックで、それまでのことを何も覚えていない」とか、「だから本当の母親の顔も覚えてない」とか、「学校では今の母親の苗字を使っているけれど、今でも籍は孤児院の院長の娘のままだ」とか、「院長が今の母親にあたしを引き渡したのは、院長に実の子が生まれて、あたしが邪魔になったからだ」とか、「かすかな記憶によると自分は父親似らしいから、鏡を見ても母親がどんな顔をしていたかわからない」とか、「今の母親にも昔は旦那がいたけど、あの震災で死んだ。だから自分には父親がいない」とか、「父親がいないから母親が二箇所でアルバイトしなきゃいけない。だからあたしはほしいものも買ってもらえないし、進学もできない」とか! いっつも不幸自慢してるじゃん!
なつみ 自慢してるわけじゃない! ただ、だれかに聞いてもらいたくて!
しおり いつもいつもそんな話ばっかりきかされるこっちはたまらないよ! だいたいあんた、進学できるほど勉強もしてないし、だいいちどこに進学したいとかそんな気持ちも、もともとないでしょ! あんたは要するに、「あたちかわいちょうでちょ。だからどうじょうちてぇっ!」ってまわりに大声で言ってるんだよ!
なつみ あんたのお父さんには悪いけど、今日はキャンセルさせてもらうよ。
しおり 今日だけじゃなくて、二度と来ないでよね!
なつみ 当たり前でしょ!
しおり あんたがビニール傘をさしてるのは、好きだからじゃなくて安いからでしょ! そう言ったらどうなの! また不幸自慢ができるじゃん!
なつみ あんた…、自分が何を言ってるかわかってるの!
しおり もちろんわかってるよ。かわいそうなあんたに同情して、うちのご飯を与えてたってね!
なつみ あんたはね、あたしみたいな、友達がひとりもいない奴を家に呼んで、「自分はかわいそうな子にやさしくしてるんだぁ」って、自己満足したいだけなんだよ。あたしを利用してユーエツカンにひたりたいだけなんだ! あたしだけじゃない! いつでもどこでも、他人の劣等感を嗅ぎ出して、それを目の前につきつけて、ひとがいやな気持ちになっていることを感じることでしか、自分が気持ちよくなれないんだ!
しおり ごはんをめぐんでもらいながらそんなことを言うだなんて、あんたってほんっとうにかわいそうな子だよねえ。ほんとうに、心から同情するよ!
なつみ ふーん、同情してくれてありがとう! だけどこれだけは覚えておいて! 自分が人間のクズだってことを! あんた生まれつきそういう人間なんだよ! ずっとそういう人間なんだよ! 死ぬまでそういう人間なんだよ!
なつみ、カバンを持って上手に向かって歩く。
しおり (カバンを持ったり歩いたりしているなつみに声をかける。なつみはしおりを見ようとしない)自分がいいたいことだけ言って逃げるんだね…、せいぜい忘れ物がないように気をつけなよ! もう一度ここに来たらバツが悪いもんねえ! 大好きなビニール傘もちゃんと持って行くんだよ! ほーらほらその調子だよ! ウチに何も言わないで、自分が最後に言ってやったようなつもりになって、今晩寝るときに、ウチに「人間のクズ」って言ってやったことを反芻すればいいよ。そうすればくやしさで眠れないなんてことがないかもしれないからね! わかってる? やさしいウチはかわいそうなあんたにアドバイスしてあげてるんだからね!
なつみ、ドスドス歩きながら退場。
しおり (なつみが退場した方に向かって叫ぶ)どんなに無視したつもりになっても、あんたがいま、はらわたが煮えくり返っていることくらいお見通しだよ!
暗転
五場 なつみの家
下手側に照明が点く。百合子が立ってごはんをよそっている。そこへ制服姿のなつみが、ドスドス歩きながら登場。
百合子 あれ? ごはんを食べてくるんじゃなかったの?
なつみ あれはなしになった。
百合子 どうかしたの?
なつみ しおりとケンカした。
百合子 どういうことなの?
なつみ 長くなるから、とにかく何か食べさせてちょうだい!
百合子 とりあえず、着替えてきたら?
なつみ 今日は呼ばれるつもりでお昼を軽くしたから、お腹がペコペコなの!
百合子 あんたが食べるとわかってたら、ちゃんと用意したのに。カップめんくらいしかないよ。
なつみ 何があるの?
百合子 ラ王のしょうゆ味。
なつみ 食べる! トッピングは何かある?
百合子 うまい棒ならあるけど…。
なつみ、テーブルについて座る。百合子、カップめんにお湯を注ぎながら言う。
百合子 それで、しおりちゃんとどうしたの?
なつみ あたしがまずこう言ったんだ…。スカイツリーの展望台に上ってみると、600メートル上空の、ものすごく広いガラス一面に、雨が叩きつけていて…、って言ったら、しおりの奴が、「うちはいやだって言ったのに、なんで雨が降っているのに展望台なんか登るんだ」とか言って…。
百合子、なつみの前にカップめんを置き、自分も座る。
なつみ だけどあたしはこう言ったんだ。目の前から、はるか下の道路まで、一本の雨が通っていくのが幾筋も幾筋も見えて、いつまででも見ていたかった。見下ろすと、たくさんの家が雨風になぶられていて、雲にとどきそうなビルの、高いところが白く煙っていて、こんな大都会でも天気が悪ければ昼でも暗いとかちょっと感傷的になって振り返ると、かわいく着飾ったたくさんの女の子が、にこにこ笑いながら、おしゃれなお店で買い物をしている。かわいらしい雑貨や、たくさんの洋服や、ぬいぐるみやキーホルダーみたいなお土産がいっぱいあって。かっこいい制服を着たきれいな店員さんが、あたしたちみたいな子供にも、やさしく声をかけてくれる。とっても明るい…。みんな楽しそう。みんな幸せそう! だけどこの塔の外では雷鳴がとどろき、風雨が荒れ狂っている! 都会と自然、明と暗とのコントラスト。
百合子 東京に出ることは許さないよ!
なつみ 論点がズレた…。ちょっと待って、ラ王がのびるから。
なつみ、カップめんを食べようとする。スマフォが鳴る。
なつみ あ…、しおりからだ。とりあえず拒否と…。
なつみ、カップめんを食べようとする。再びなつみのスマフォが鳴る。
なつみ しつこいな…、拒否…。
なつみ、カップめんを食べようとする。みたびなつみのスマフォが鳴る。なつみ、イライラしたようにスマフォを操作して耳に当てる。
なつみ もしもし!
しおり (スマフォから声が聞こえてくる。スマフォからの声は百合子には聞こえない)あっ、ごめんなつみ! その…、家に帰って、お父さんにあんたはどうしたのって言われて、それで説明するときに、自分がさっき何を言ったかを思い出して…。
なつみ それであたしをかわいそうと思ったとか、そういうのはいらないから!
しおり そうじゃなくて! これは信じてほしいんだけど、ウチはなつみとこんな風になったままなんて耐えられなくて…。
なつみ 長くなるんだったらメールちょうだい! いまとりこんでるから!
なつみ、通話を切ってカップめんを食べようとする。よたびスマフォがなる。
なつみ しおり! だからいま取り込んでるって!
美絵子 (スマフォを通しての声)しおりの母です。
なつみ (以後、ずっとカップめんをにらみながら、焦った感じで言う)それは…、今日は失礼しました。
美絵子 本当に失礼ですね、あなたは。
なつみ いま取り込んでいるので、また…。
美絵子 また? またなんてありませんよ! 二度とうちに来ないでください!
なつみ はい、それはしおりからも聞きました…。
美絵子 それですむと思ってるんですか?
百合子 (なつみに)どうしたの?
なつみ (百合子に)いいよ、うるさいな…。
美絵子 うるさいってどういうことなの!
なつみ (美絵子に)あ、いやすみません。
美絵子 あなたは、しおりが自己満足のために自分を家に呼んでいると言ったそうですね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 しおりが優越感にひたりたいために、自分を利用していると言ったそうですね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 しおりが、他人の劣等感をかぎつけて、それを目の前につきつけて気持ちよくなっているとも言いましたね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 しおりのことを人間のクズだって言いましたね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 しおりが生まれつき人間のクズだといいましたね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 ずっと人間のクズだといいましたね。
なつみ はい、言いました。すみません。
美絵子 死ぬまで人間のクズだと言いましたね。
なつみ はい、言いました。すみません。
百合子 (なつみに)しおりちゃんからじゃないの? 電話代わろうか?
なつみ (百合子に)ちょっとまって…。
美絵子 何が待てですか!
なつみ (美絵子に)すいません!
美絵子 まず、しおりは人間のクズではありません。
なつみ はい、わかっています。
美絵子 生まれつきそうではないですし、ずっと違いますし、死ぬまでそうではないです。
なつみ はい、わかっています
美絵子 そのような言葉を発するようなあなたの方こそ、クズです。
なつみ はい、わかっています。
美絵子 しおりは、他人の劣等感をかぎつけたりしません。
なつみ はい、わかっています。
美絵子 ましてそれを本人につきつけてよろこんだりしません。
なつみ はい、わかっています。
美絵子 しおりがあなたを家に呼んでいたのは自己満足のためではありません、ただの「親切」です!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 自分の娘のことを「人間のクズ」とか言う子に食べさせるごはんなんかありません!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 あなたに食べさせるごはんなんかないです!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 別に、わたしの家であなたにご飯を食べさせる義務なんかないんですよ! これもただの「親切」です!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 たとえ相手が貧困女子高生だとしても、お客さんにいい加減なものを食べさせられないし、お金だってかかるんですよ!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 うちだってね、決して裕福な家じゃないんです!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 ………さっきから同じことばっかりいってるけど、本当にわかってるのか!
なつみ はい、わかっています。
美絵子 もういい! 話にならない!
プツッと通話が切れる。
五場 四場からそのまま続く。
百合子 (心配そうに)どうなったの!
なつみ ラ王が伸びた…。
百合子 そうじゃなくて、今の話がどうなったかを聞いてるの!
なつみ わかった。ちゃんと説明するから…。
百合子 またかかってるんじゃないの?
なつみ (スマフォを操作しながら)そうだね。着信拒否しとこう。ちゃんと説明する。だけどとりあえず、なんかほかに食べるものない?
百合子 しょうがないねえ。ご飯は炊いてあるんだけど。
なつみ おかずは?
百合子 とんかつソース。
なつみ とんかつじゃなくてとんかつソースなんだ…。おかずにはならないかな。
百合子 たこやき。
なつみ お好み焼きならおかずにするって話は聞いたことがあるけど。
百合子 サラミ。
なつみ なんか、おつまみのイメージがあるね。
百合子 エビマヨネーズ。
なつみ どっちかっていうと、おにぎりの具かな。
百合子 シュガーラスク。
なつみ 絶対におかずには無理だね。
百合子 チョコレート。
なつみ シュガーラスク以上に無理だよね。
百合子 やさいサラダ。
なつみ サラダはいいけど、それだけってのはちょっとね。
百合子 オニオンサラダ。
なつみ やさいサラダと同じことがいえるね。
百合子 ピザ。
なつみ いいけど、おかずにはならないかな。
百合子 てりやきバーガー。
なつみ おかずっていうより、食べ物として完結してない?
百合子 チキンカレー。
なつみ やっとおかずらしくなってきたね。
百合子 ぶたキムチ。
なつみ いいねえ。
百合子 コーンポタージュ。
なつみ いいけど、それだけじゃちょっとねえ。
百合子 牛タン塩。
なつみ いいねえ。
百合子 チーズ。
なつみ ごはんのお供としてはどうかな。
百合子 なっとう。
なつみ 普通におかずだけど、あたしは食べられないのを知ってるでしょ。お母さんもたべないけど。
百合子 めんたい。
なつみ。 いいねえ。
百合子 結局どうするの?
なつみ そうだねえ、牛タン塩と、コーンポタージュと、オニオンサラダをもらえる?
百合子 うん、いいよ。
百合子、戸棚の引き出しを開ける。
なつみ ちょっと待って。冷蔵庫に入ってるんじゃないんだ。何か嫌な予感がするんだけど。
百合子、引き出しからうまい棒の大袋を取り出す。袋から、うまい棒を三本取り出す。
百合子 はい、牛タン塩と、コーンポタージュと、オニオンサラダ!
なつみ …そうじゃないでしょ! これは、牛タン塩味と、コーンポタージュ味と、オニオンサラダ味のうまい棒でしょ!
百合子 だから、ちゃんとしたご飯を用意してないって言ったじゃない。主婦が、自分しか食べないのに、いちいち料理なんかするわけないし。
なつみ …うまい棒をおかずにしてるの?
百合子 ほぐしてごはんにかけるとおいしいよ!
なつみ はあ…。
なつみ、カップめんを食べ始める。
なつみ ああ…、スープが一滴もない。スープを吸いきった麺が、どんぶりに山盛りになっている。麺に味がない。塩味さえない。それでいて量だけはしっかりある。これでお腹をいっぱいにしてしまうことが悲しい。なんかものすごく損した気分だ…。
なつみ、拳を握る。
なつみ ラ王のカタキはきっととる!
百合子 それで、しおりちゃんのことはどうなったの? 説明してちょうだい。
なつみ 最初から話すね。昨日しおりと、娘が東京に出たがっているのに、行かせない母親は娘を愛してると言えるのかっていう話になってね。
百合子 東京には行かせないよ。あんた自炊なんかできないでしょ。
なつみ インスタントラーメンとゆで卵なら作れる!
百合子 そればっかり食べるつもり? 病気になるでしょ! カップめんでさえ伸びてるじゃない!
なつみ あれは電話がかかってきたからで…、また論点がズレた! とにかくそういう話になって、お母さんが本当にあたしのことを愛してるかってことがすごく気になってるんだけど。
間。
なつみ キモいことを聞くけれど、お母さんは、なつみを愛している?
間。
百合子 …愛ではないと思う。
間。
なつみ そうなんだ! もういいよ! しおりのお母さんなんか、娘かわいさのあまり、赤の他人に電話して罵倒してきたのにさ! 本当にあたしなんかじゃなくて、もっと素直でかわいい、ついでに成績もいい子を引き取れば良かったのにさ!
なつみ、下手に退場しようとする。
百合子 待ちなさい! しおりちゃんのことを説明して!
なつみ 知らないよ!
なつみ、下手に退場する。
暗転。
六場 上手に照明が点く。一場と同じ往来。
街灯があるが、昼間であるため点いていない。上手からなつみ登場。下校中。カバンを持ち、歩きながらしゃべる。
なつみ しおりが学校に来てなかったな…。めんどくさいことにならなきゃいいけど。まったく、しおりにキモいって言われたり、しおりに同情されてキレたり、しおりに罵倒されたり、しおりのお母さんに罵倒されたり、カップめんがのびたり、のびたカップめん以外食べるものがなかったり、まずいものをたらふく食べて気持ち悪くなったり、東京に行かせないって言われたり、レンタルDVDのセルフレジに千円札を入れたらフタが閉まるのが早くて指を挟まれたり、ワイファイがつながらなかったり。
なつみ、立ち止まる。
なつみ お母さんに愛してないって言われたり…。
間。
なつみ ロクなことがないよ…。ここがあたしが捨てられた場所か…。いい加減この街灯もLEDにすれば、少しは明るくなるのにな…。この土地にいる限り、あたしは幸せになれないのかもしれない。本当のお母さんなら、東京に行くことも許してくれるんだろうか。
なつみ、両手を組んで祈り出す。
なつみ 神様、どうかあたしの本当のお母さんが見つかりますように。あたしの本当のお母さんが、とっても素敵な女性で、あたしのことをいちばんに考えてくれて、東京に行くことも反対しないひとでありますように。
上手から美枝子登場。
なつみ それでできれば、うまい棒をおかずにしない人がいいです。もっともこれは、絶対にそうじゃなくちゃいけないというわけではありません。素敵な女性で、あたしが一番で、東京に行かせてくれる人なら、主食がうまい棒でもかまいません…。
美枝子あの…、関なつみさんでいらっしゃいますか…。
なつみ (ビクッとする。いきなり知らない人に声をかけられたためと、祈っていたことを聞かれたのではないかというバツの悪さから、警戒している感じ)そうですけど…。
美枝子 やっぱりそうですか…。実は私は、あなたに謝らなければならないことがあるんです…。
暗転。
七場 下手に照明が点く。なつみの家。
百合子、夕飯の支度をしている。
なつみ (外から)ただいまーっ。
百合子 おかえり…。
なつみ、美絵子を連れて下手から登場。
百合子 (なつみに)そちらは…。
なつみ お客さん。
美絵子 (申し訳なさそうに)お邪魔します…。
百合子 (なつみに)お客さんだったら、わたしが玄関まで出迎えないと失礼になっちゃうでしょ。呼んでくれればすぐ玄関まで行くのに…。
美絵子 すみません。
百合子 (美絵子に)いえ、娘のせいですから。
なつみ 玄関からここまで一メートルもないけど。
百合子 そういうことじゃないでしょ。
なつみ じゃあ、玄関からやり直そうか。
百合子 それはそちらに失礼でしょ。(美絵子に)お座りください。
美絵子 いえ、私は玄関でも…。
百合子 いいからお座りください。
美絵子 はい…。
美絵子、下手側に座る。なつみ、上手側に座る。百合子、真ん中に客席に向かって座る。
百合子 それで、今日来ていただいたのは、どういったご用件ですか?
美絵子 じつはわたしは、こちらのなつみさんの、実の母親でございます。
百合子 (驚く)は? はあ…。
間。
百合子立ち上がる。
美絵子 あの…。
百合子 とりあえず、お茶とお茶菓子を…。
美絵子 構わないで下さい! いきなりおしかけたんですから!
百合子 そうですか? だけど菓子だけは食べてください。私は西の方の出身で、この子もなっとうを食べないものですから。
美絵子 は? お菓子になっとう? 甘納豆ですか?
百合子、うまい棒を一本取り出して美絵子の前に置く。
百合子 うまい棒のなっとう味なんですが、お特用の大袋で買うと入ってるんですけど、この子も私も苦手なもので。
美絵子 はい…。それで、今日お邪魔しましたのは…。
百合子 そのなっとう味はノルマです。
美絵子 はい…。
美絵子、バツが悪そうにうまい棒の袋を開けて食べる。
なつみ この人は確かにあたしの本当のお母さんだよ。写真も書類も見せてもらったんだ。
百合子 それで、今日はどういうご用ですか?
美絵子 いや、なつみさんを引き取りたいとかそういう…。
百合子 (美絵子の言葉を遮って言う)お断りします。
美絵子 そういうわけではなくて、なつみさんから聞いたのですが、なつみさんが東京に出ることに反対されているとか。
百合子 はい。
美絵子 初対面の私が言うのもおこがましいのですが、なぜなのでしょう。「かわいい子には旅をさせよ」と言います。親元から離れさせて、ひとり立ちさせるのも愛情ではないでしょうか。
百合子 わたしはきっと、この子を愛してなどいないのでしょう。
なつみ だったらなんで引き取ったの!
間。
百合子 前にも言ったけれど「なんとなく」かな。
なつみ じゃあなんで、「なんとなく引き取った」の! 言っちゃ悪いけど、おかあさんは、なんとなく子供を引き取るほどお金に余裕のある人じゃないでしょ!
百合子 子供がお金のことなんか言うのはやめなさい!
なつみ あたしの言いたいのはお金のことなんかじゃないの! なんで「他の誰かじゃないあたしを引き取ったか」ってことなの!
百合子 あえて言えば、前にも話したことがあるけれど、捨て子だったあんたを籍に入れていた施設の所長に実子が生まれて、あんたをもてあましてたからっていうのはあると思うけれど。
なつみ じゃあ、ほかの誰かが所長にもてあまされてたら、その子を引き取ったっていうこと?
百合子 そんなこと言ってないでしょ!
なつみ じゃあ、なんであたしだったの!
百合子 だから、「なんとなく」って言ってるでしょ!
なつみ いい加減にして!
百合子 いい加減にしてほしいのはこっちだよ!
間。
美絵子 (百合子に)あの…、あなたはわたしが「なつみさんを引き取るとかそういう…」
百合子 (遮って)お断りします!
美絵子 「…ことではありません」と言い終わる前にそうおっしゃいました。ならば愛していないとは言えないのではないですか? まさかただの、責任感などではないでしょう。
間。
百合子 わかりません。ただ、私の今の気持ちを「愛」であるかと聞かれたら、「はい」と言い切ることはできそうにありません。
なつみ (百合子に)いい加減にして! この「本当のお母さん」が、「かわいい子には旅をさせよ」って、あたしの言うとおりにすべきだって言ってるんだよ! 「本当のお母さん」に対抗したいっていう気持ちが少しでもあるんなら、たとえウソでも「愛してる」って言うもんじゃないの!
間。
百合子 あなたにはね…、本当のお母さんなんていないんだよ…。
なつみ 言ってる意味がわからないよ! じゃああたしはどうやって生まれてきたっていうの! 試験管ベビーかなんかだったの! それともクローン? だとしても、卵子提供者くらいいるでしょ! それともアメリカに代理母でもいるの!
間。
百合子 あなたは、試験管ベビーでもなければクローンでもないし、代理母から生まれたわけでもない。
なつみ だったら、生んでくれたお母さんがいるでしょ!
百合子 それでもあなたには、本当の母親なんかいないんだよ!
なつみ あなたが何を言っているのか、あたしはさっぱりわからない! だからこの人が、なつみの本当のお母さんだって言ってるじゃない! このお母さんに対抗しようとは思わないの! 「なつみを愛してる」とか、「愛しているから東京に行かせたくない」とか、その程度のことも言えないの!
百合子 愛しているなんて言えない…。
なつみ 「本当のお母さん」が、「かわいい子には旅をさせよ」って言ってるんだよ!
百合子 あなたには、本当のお母さんはいない…。
なつみ、立ち上がってテーブルをぶっ叩く。
なつみ いい加減にして!
間。緊迫した雰囲気。
八場 七場の続き。
美絵子いたたまれなくなる。立ち上がって、百合子に深々と頭を下げる。
美絵子 申し訳ございません! 私は、なつみさんの実の母親なんかじゃないんです!
百合子 ……どういうことでしょうか?
なつみ あーあ、おばさん、ネタバラシが早すぎるよ…。
なつみ、腰を下ろす。
美絵子 わたしはなつみさんのクラスメートの、神保しおりの母で、美絵子といいます。
百合子 はあ…、とりあえず、お座りください。
美絵子、腰を下ろす。
百合子 それで、しおりちゃんのお母さんが、なんでこんなことをなさったんですか?
美絵子 わたしは昨日、なつみさんに電話をかけて、ひどいことをたくさん言いました…。
なつみ 貧困女子高生だとか、親切で今までご飯を食べさせてあげたとか、なつみに食べさせるご飯はないとか…。
美絵子 申し訳ございません…。
百合子 (なつみに) 性格悪いねあんた…。
なつみ だったら性格のいい子を引き取ればよかったんじゃないの?
百合子 話がブレるからやめなさい。
なつみ ひとのことを言えないでしょ!
美絵子 娘かわいさのあまりの暴走です。しかし、しおりの話を聞いていくと、しおりがなつみさんに相当ひどいことを言っていたことがわかりました…。
なつみ なつみがいつも、ひとの同情をひこうとしているとか、なつみのことをかわいそうに思ってるから家でご飯を食べさせているだとか、貧乏だからビニール傘を使ってるんだろうとか、言いたいことだけ言って逃げようとしているとか。
美絵子 申し訳ございません…。そこまでひどいとは聞いていませんでした…。
百合子 (なつみに)謝っている人に追い討ちをかけるのはやめなさい!
なつみ (美絵子に)ひとに悪口を言ったことを、親に全部話す子供なんかいませんよ。もっと言うと、どんなにひどいことを言われても、自分が今日しおりに言ってやったことを反芻すればくやしくて眠れないこともないだろうとか、無視したつもりになっていても、なつみのはらわたが煮えくり返っていることなんかお見通しだとか…。
百合子 やめなさい。やめろ!
なつみ ラ王のカタキをとってるだけだよ。
百合子 ラ王なんかいつでも食べさせてやるからやめろ!
なつみ たしかに今のは、「死体蹴り」だったな。
百合子 あんた、友達なくすよ…。
なつみ (美絵子に)それでも、しおりにもやさしいところがありますよ。かわいそうなあたしを家に呼んで、ご飯を食べさせてくれたし。
百合子 また! やめろって言ったでしょ!
美絵子 しおりにやさしさが全くないとはいいません。しかしそのやさしさは、自分が傷つかない範囲で人に与えるものでしかありません。だからせめてわたし自身は、うそを吐くことで、自分の信頼を傷つけてでも、なつみさんに頼まれたことをしなければならないと思いました…。
百合子 (美絵子に)いやまあ、誰にも言いませんけど。なんていうか、あなたも極端な人ですねえ。
美絵子 (なつみに)だから、わたしに免じて、しおりに会ってもらえませんか! しおりは今、ご飯を食べていてもいきなり「なつみも今ごはんを食べているんだろうか」とか言ってみたり、お茶を飲んでいても、「なつみは紅茶のほうが好きだったな…」とか、テレビがついていれば、「なつみが好きな番組だった…」とか…。
なつみ …死んだわけじゃないんだけど。
美絵子 寝る前には、「なつみ、声が届くわけがないけど、おやすみなさい」と言ってから布団に入ったりしています。
なつみ なんていうか…、重いというか、ヒくというか。
美絵子 しおりは、なつみさんと話したがっています。
なつみ 着信拒否したのが効いたのかな。
百合子 なんでそんなことするの!
なつみ お母さんが、「またかかってくるんじゃないか」って言ったからでしょ!
百合子 メールは?
なつみ そっちは受信拒否してない。忘れてた。というより、メールを見るのも忘れてた。
なつみ、スマフォを操作してメールを開く。
なつみ きゃぁぁぁぁっ!
なつみ、スマフォを放り出す。百合子、放り出されたスマフォを拾う。
百合子 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」字数制限いっぱいに「ごめんなさい」が埋まってる。あ…、いっぱいきてるけど、これもそう…、これもだ…。
なつみ きもちわるっ!
百合子 そういうことを言うのはやめなさい!
なつみ いくらなんでも気持ち悪いでしょ!
百合子 だけどしおりちゃんも、極端な性格だよね…。
美絵子 しおりが、私がなつみさんを罵倒したから着信拒否されたと怒りまして…、それで、なつみさんに謝るまでは私を許さないと言っておりまして。さらに、なつみさんと話せない間は学校に行かないとまで言っています。さっき、「自分の信頼を傷つけるためにこんなことをした」とか申しましたが、しおりの様子に途方に暮れていたからというのが本当のところです。そこで今日は仕事を休みまして、下校中のなつみさんを待ち伏せさせていただきました。そこでなつみさんに、「本当の母親のふりをしてほしい」と言われました。私に拒否することなどできるはずもありません。しかし、このようなことをしたら、自分の信頼を傷つけるだけでなく、お母さんも傷つけることになると、お母さんの顔を見てから気がつきました!
百合子 別に傷ついてはいません。
美絵子 本当に申し訳ありませんでした。
百合子 傷ついてません。あなたがなつみの本当の母親などではないと、すぐにわかりましたから。
なつみ なんでっ!
百合子 (百合子に)なつみには、本当の母親など、いないのですから。
なつみ まだそんなこと言ってるの!
美絵子 なつみさん、しおりを許してくださいとは言いません! だけどせめて、会って話してもらえませんか!
なつみ 正直、今のしおりに会うのはコワいんですけど。
美絵子 私が立ち会いますから! (美絵子、立ち上がって頭を下げる)お願いします!
なつみ わかりました…。しおりにも言い分があると思います。とにかく一度話し合ってみます。
美絵子 ありがとうございます。明日の放課後、うちによってもらえますか?
なつみ はい、そうします。
百合子 夕飯はご遠慮します。家で食べさせます。
美絵子 それで、もうひとつお願いがあるのですが…。
百合子 なんでしょう。
美絵子 うまい棒のなっとう味が歯の裏にくっついてしまいまして、さっきから気になって仕方がないんです。しかも、うまい棒が口の中の水分を全部吸い取ってしまいまして。申し訳ないのですが、水道の水でいいですから、なにか飲むものをいただけませんか?
百合子、ペットボトルのお茶を湯のみに入れて美絵子に渡す。
美絵子 ありがとうございます…。
美絵子、立ったまま湯のみのお茶を一気に飲み干すと、深々と頭を下げる。
美絵子 失礼いたします…。
美絵子、下手に退場する。百合子、下手まで美絵子を見送る。なつみ、座ったまま自分でペットボトルのお茶を注いで飲んでいる。
八場 七場の続き。
百合子、下手から帰ってきてなつみをにらむ。
百合子 なつみ! 自分が何をしたかわかってるの! ひとの弱みにつけこんで、大人にウソを吐かせるなんて! あの、しおりちゃんのお母さんの気持ちがわかる? 娘のために必死なんだよ! 親はね、子供のためならどんな恥でもかくし、どんな茶番でもするんだよ! もしわたしが、さっきのことをいいふらしたり、職場にいいつけたり、家に電話してご主人に言ったりしたら、あのひとどうなっちゃうと思う? あんたのやったことはそれほど重たいんだよ! わたしならともかく、よその人に迷惑をかけるのはやめなさい!
間。
なつみ 怒るところはそこなんだ…。
百合子 わけのわからないことを言ってもごまかされないよ! あんたは、友達のお母さんにウソを吐かせたんだ!
なつみ 落ち着き払っちゃって! もしとつぜん「なつみの本当の母です」っていう人が現れたら、もっと慌てると思った! そうなったら、「自分が愛されてる」って、ほんの少しでも信じられた! それなのに、「愛しているわけではない」って! なんでそんなことを言うの?
百合子 それは…、資格がないから。
なつみ なんのためにそんなことを言うの? そんなことを言ってなんになるの? あたしをつらい気持ちにさせる以外に何の意味があるの?
百合子 私には…、資格がない。
なつみ あんなことをしたあと、「おどかすな! おまえを取られると思ったじゃないか!」って怒られると思った。それでぶたれてもいいと思った! だけどあなたは、「他人に迷惑をかけるな」しか言わない! 他人に迷惑をかけちゃいけないことぐらいわかってるんだよ! それでもお母さんに「なつみを取られるかもしれない」って、必死になってほしかったんだよ! なんで必死にならないの? あたしが素直じゃないから? 性格のいい子じゃないから? 成績のいい子じゃないから? それとも、本当のお母さんじゃないからなの? だからあんなに落ち着いていられるの?
百合子、動揺する。座る。
なつみ あたし、何回も神様にお願いしたんだ! いつかあたしの本当のお母さんが現れて、その人がとっても素敵な女性で、東京に行くことも反対しないでくれて、何よりもあたしのことがいちばんでありますようにって!
百合子 わたしが、あわてなかったのは、すぐにあの人が、なつみの母親じゃないことが、わかったから。あなたには、本当の母親なんかいないから…。あなたには、わたしっていう、ニセモノの母親しかいない…。
なつみ だから、なんのためにそんなことを言うの! そんなことを言ってなんになるの! それとも何か知ってるの! その人はもう死んでるの? 知ってるんだったら教えてちょうだい!
百合子 違うの…。死んだわけじゃないの…。あなたには、最初から本当の母親なんていないの…。
なつみ そんなわけがない!
なつみ、立ち上がる。上手側にライトが点く。上手には一場と同じように街灯が点き、三歳のなつみが客席側に向かって立っている。なつみの母親が三歳のなつみの方を見て、つまり客席に背を向けてしゃがんでいる。なつみ、上手に向かって話す。
十七歳のなつみ あのころのことはほとんど覚えていない。だけどあの日のあの場所でのことだけははっきり覚えている。あの日私はお母さんに、全く知らない所に連れてこられた。
なつみの母 なつみちゃん、このあと、知らないおばさんがここにくる。だけど、そのおばさんの言うことをちゃんと聞いてね…。
三歳のなつみ ママは?
なつみの母 ママは、いっしょにはいられない。だけど、絶対に迎えにくるから! だから、いい子にして待っていて!
十七歳のなつみ、上手にゆっくりと歩いていき、三歳のなつみとなつみの母がいる空間に入る。なつみの母の方を見て話す。
十七歳のなつみ あのときお母さんが何を言っているのか、小さなあたしには何もわからなかった。ましてこれから自分に何が起きるのか、何もわかっていなかった! だけどそのときのお母さんの顔があまりにも悲しそうで…。あたしはお母さんがかわいそうでかわいそうでならなかった! だからこう言ったんだ!
三歳のなつみ ママ…。
下手で、百合子がガタッと音を立てる。(観客の意識を下手に向けるため)
百合子 大好きだよ…。
十七歳のなつみ えっ…。
十七歳のなつみ、勢いよく下手に振り返る。上手のライトがフッと消える。十七歳のなつみ、走って下手の空間に帰ってくる。
なつみ なんで知ってるの!
百合子 なんでだって! 忘れられるはずないじゃないか! 三つのあんたが、自分の不安を押し隠して、わたしに言ったあのやさしい言葉を、忘れるわけがないじゃないか! この十四年間、あんたと再会していっしょに住み始めてからさえも、一日だってこの言葉を忘れたことはない!
なつみ なんで黙ってたの…。
百合子 言えるはずないじゃないか…。わたしはあんたを捨てたんだ! 犬か猫みたいに、わが子を捨てた! わたしは犯罪者だ! あんたの人生にとっていちばん大切な時に、わたしはあんたの前から消えた! だけどいまのあんたは、ぎりぎりまで追い詰められている! これ以上隠すことはできない。だから今まで言えなかったことを、全部話そう。
なつみ わかった。いや、なんにもわからない! とにかく最初から教えて!
百合子 うん…。最初から話すよ。あたしは高校を出て就職して、あんたの父親と恋に落ちた。あんたの父親は…、強くて優しい男だった! 顔は、今のあんたに生き写しだ。あんたはあたしに似なかったぶん父親に似なかったんだろう。あの人は、あんたを身ごもった十九歳のあたしに仕事をやめさせて、あたしの両親を説得して、正式に結婚してくれた! あたしは幸せでいっぱいだった! だけど西日本を襲ったあの震災…、あの日あの人は、あんたとあたしを家の外に出すのが精一杯で、自分は逃げ遅れて、家の下敷きになった! あの人に死なれて途方に暮れたわたしは、仕方なくあんたを連れて実家に帰った。ほんのしばらくの間、平穏な日々が続いた。だけどギャンブル好きだった私の父親はいろんな所に借金を作っていた。ある日わたしの母親といっしょにいなくなってしまった! 借金取りに知られていたわたしの家に、毎日毎晩厳しい取立てが来るようになった。わたしはどうにもならなくなった! わたしは逃げなければならなくなった。だけど子供を連れていれば、いつか借金取りに見つかってしまう! わたしはあの孤児院に、あんたを捨てた!
間。
なつみ だけど、孤児院も通報しただろうし、病院に行って保険証を使ったこととかを調べればすぐ身元がばれると思うけど、なんで警察にお母さんが見つからなかったの?
百合子 そのころわたしには戸籍がなかった。
なつみ …どういうことなの?
百合子 わたしの本籍のある田舎町の役所は、震災でめちゃくちゃに壊れたあげくに、火事にまで遭った。戸籍関係の書類もいくつか燃えてしまった。今ならコンピューターにデータが残るんだろうけれど、何しろ十五年も前のことだ。こんなことが他の人に起きたかどうかはわからないけれど、わたしは、生きているわけでも死んだわけでもない、始めからいなかったことになった。
間。
百合子 もっともそれは悪いことでもなかった。借金取りからは逃げられたし、孤児院はむろん警察に届けただろうし、警察も「保護責任者遺棄罪」の容疑で捜査しただろうけれど、とうとう見つからなかったのは、わたしに戸籍がなかったからだろう。しかし戸籍のない状態では、あんたを引き取りにいけない。わたしは、がむしゃらに働いた。いつかあんたを迎えに行くために! 「関百合子」というのは、あの震災で行方不明になった女の名前だ。大金を払って新しい戸籍を手に入れたときには、十年以上の年月が過ぎていた。そのころ、長い間子がなかった、あんたを養女にしてくれていた施設の所長に、ついに自分の子どもができたことを知った。だけど戸籍があるとはいえ、一人身で収入も安定しないわたしが、正式にあんたを養女にすることはできなかった。籍はもとのまま、わたしはあんたを手元に引き取った。
間。
百合子 わたしはあんたを取り戻したかった! あんたと毎晩ご飯を食べたかった! あんたの隣で寝たかった! 毎朝あんたのお弁当を作りたかった! いっしょにデパートに行きたかった! あんたの私服のコーディネートをしたかった! どっちの服が似合うかで、試着室の前でケンカしたかった! 家に連れてきたあんたの彼氏の品定めをしたかった! 素直でいい子なんかいらない…、性格のいい子なんかいらない…、成績のいい子がなんだ! わたしはあんたがほしかった! あんたじゃなければいやだった! あんたが東京に行くことにしつこく反対したのも、この家を出してしまったら、二度と帰ってこないような気がしたから! こんなのは愛じゃない! 愛っていうのは、もっと気高くて、もっと神々しくて、たくさんのひとに与えるものなんだろう。わたしは、あんたを奪うことしか考えていなかった! ただのわがままだ! ただの自分勝手だ! こんなものが愛のわけがない! あんなにひどいことをしたことを棚に上げて、それを今の今まで隠していたような女が、あんたの本当の母親であるわけがない。母親であっちゃいけない! わたしは自分のことしか考えてない! あんたは神様に、「東京に行かせてくれて、素敵な女性で、なつみのことをいちばんに考えてくれる本当のお母さんが現れますように」ってお願いしたって言ってたけど、そんな人は、この世のどこにもいないんだよ!
なつみ お母さん…。
百合子 えっ…。
なつみ (百合子をしっかりと見つめ、微笑んで、歌うように、ささやくように、気負うことなく、それでいてしっかりと言う)大好きだよ…。
間。
百合子 (泣いている)だめ…。わたしみたいな女に、その言葉をかけちゃだめ…。わたしはあんたを「愛」しているわけじゃないんだよ。求め続けただけなんだよ! わたしはあなたの「本物の母親」じゃないんだ。ニセモノなんだよ!
なつみ、百合子の手を取って立たせる。
なつみ お母さん……、いっしょに東京に行こう!
百合子 えっ…。
なつみ、百合子の手を引いて大道具の外に出てしまう。ベタ灯り。上手下手の全ての道具が丸見え。なつみ、百合子を舞台の中央に連れてくる。
なつみ お母さんもあたしも、この土地ではつらいことが多かったよね。お母さん若いんだもの。東京に出れば、きっといいことがあるよ。ここよりも狭いアパートになるだろうけれど、あたしが就職して働いて、お母さんが家事をしてくれれば、別々に住むよりお金もかからないよね。それとも、東京に行くのはいや?
百合子 行く! なつみといっしょにいられるなら、東京でもアメリカでも北極でも火星でもどこにでも行く!
百合子、なつみに抱きつき、なつみの胸に顔を埋めて泣く。なつみ、百合子の頭をやさしく撫でる。
なつみ ほんとうに願いがかなった…。神様…、ありがとう…。
了