1
「わかる? あなたの名前は『草薙響』というのよ」
それが目覚めて最初に聞いた言葉だった。
* * *
長い時間、深い夢の中にいるような気分だった。
泥の中をもがいていると、そこに光の波が押し寄せてきた。全てが洗い流される。自分の中にある闇も、悲しみも、苦しみも。全てが消えていく。
目覚めた時、心の中も記憶の中も空っぽだった。
身体の動かし方さえわからなかった。目に入るもの全てが目新しかった。眩しかった。ただ、生きているという感覚だけが全身を包んでいた。
なぜだか涙が溢れた。
その後、これまでの事情を聞かされることになった。
「あなたはねーー」
と呆然としている自分に向かって、誰かが声をかけてくれた。
最初は何を聞かされているのかもわからなかった。
それが誰なのかもわからないまま声を聞く。それはただの声であって、言葉にすら聞こえてはいなかった。
少しずつ、少しずつ、時間と言葉を重ねることで、自分が何を聞かされているのかを理解していった。大きな事故にあったため、過去の記憶を全て失ったのだと教えられた。そして、その事故の後遺症で長い間眠り続けたのだそうだ。
確かに何も憶えてはいなかった。自分の名前も、年齢も生まれ育った場所も。
最初に教えてもらったのは、自分の名前だった。
『草薙響』
それを聞いた時、微かにその名前に憶えがあった。それはつまり全て忘れたつもりでいたが、どこかにかすかな記憶が残っているということなのかもしれない。
次に教えられたのは『一条家』についてだった。
一条家は山林や田畑をはじめ、さらには不動産や建築関係の会社を複数所有しており、資産家として、地方の有力企業の一つとして広くその名を知られていた。だが、その実体は別にあるらしいのだが、そこについてあまり多くを教えてはもらえなかった。
その一条家の当主が一条春影だ。40代後半と聞かされたが、見た目はもっとずっと若く見える。春影もこの春、響と同じ事故のために大ケガを負ったそうだ。生命の危険もあったらしく、今でも障害が残っている。それでも一条家お抱えの医者や、リハビリによって歩けるまでに回復したのだそうだ。
その一条家が、一条春影こそが響の親戚なのだそうだ。そして、自分はその一条家のもとで暮らしているのだそうだ。
自分の家族についても教えてもらった。京都にある旧家で生まれ育ち、今年の春に高校に入学するために引っ越してきたのだそうだ。両親は今でも京都で暮らしているが、事情によって今は会うことが出来ないらしい。
家族が身近にいないというのは寂しく感じるところもあったが、不思議に会いたいという思いは湧いてこない。
これも記憶を失っているためだろうか。
記憶喪失とは不思議なもので、生活に関する情報の全てが消えているわけではないらしい。
生活習慣や一般常識と言えるものは憶えているが、自分のことや周囲の人々のことはまるで記憶していなかった。
* * *
淡々と季節が過ぎていく。
アッという間に夏が終わり、秋がやってくる。
ぼんやりと部屋の窓から外を眺めているとーー
「新しい季節が始まりますねぇ。ワクワクしますね」
いつの間に入ってきたのか、双葉伽音が背後から声をかける。
彼女もまた同じ一条家で暮らしている。彼女も一条家の遠い親戚らしいのだが、当然のように彼女についての記憶もまったくなかった。もともと響自身は京都で生まれ育ったため、伽音と知り合ったのはつい最近なのだそうだ。
彼女はいつも響の傍にいた。そして、彼女もまた事故の被害者なのだと聞かされた。そのために彼女も休学して一条家で静養をしているらしい。
同じ境遇の人がいるということは、少し頼もしい気もするが、彼女は決して事故のことなど気にしてはいないようだ。その点は記憶のない自分とは立場は違うのかもしれない。
そもそも事故というのが、どういうものかがわからなかった。
「事故にあったため」と、皆、口にするが、それがどんな事故なのかについて、誰も詳しくは話してはくれない。
一条家の居心地は悪いものではなかった。
記憶はないが、身体に不調はない。春影のように大ケガをしたということもなさそうだ。治療のための療養と言われてもピンとこない。
そもそも、自分がなぜここにいるのか、響にはその理由がよくわからなかった。なぜ、実家から離れて暮らしているのか、親戚だからといってなぜ一条家に身を寄せているのか。
一条家にはさまざまな人々が出入りしている。
巫女の姿をした女性や、僧侶、山伏などの姿をした男性たちが多く出入りしており、何か特別な仕事をしているようだった。
その中には響のような高校生や中学生までが含まれているらしい。
自分も共に働かなければいけないような気がして、自分に何か出来ないかを申し出たこともあるが、春影には即座に断られた。
「あなたはそんなことを考えなくていいのです。あなたが考えなければいけないのは、この生活に慣れることです」
慣れること、と春影は言った。
でも、こんな毎日でいいのかと疑問になった。
この生活に不満があるわけではない。そもそもどんな生活が『普通』なものなのかすらわからないのだ。
「そんなこと気にすることはないのですよ」
伽音は落ち着いた口調でそう言った。
彼女もまたケガを負ったこともないようだ。そして、彼女の場合、自分のことも含めて多くの事情を知っているように見えた。
彼女はいつも一人で勝手に出歩いていた。
響にとって、彼女はいつも不思議な存在だった。




