3-2 無為な時間
夢を見ていたのだろうか。
目の前にある絵は、病院の待合室の風景だ。赤ら顔の酔っ払いはどこにもいない。
「××さん、××さん。整形外科の診察室へお入りください。」
アナウンスが流れている。
五十半ばくらいの女が、やっと回ってきた、といわんばかりにおおきく息を吸い込んで、よろよろと立ち上がる。待合室には淡々とした時間が緩やかに流れている。
カルテの入ったボックスが、天井に付けられたレールにぶら下がって廊下を左から右へと動いて行く。そして、思い出したように止まっては、それぞれの診察室に入っていく。幾つものボックスが、出たり入ったりしながら、大病院の事務は滞りなく流れていく。
あの中に、それぞれの患者が背負うことになった運命が、ごくごく手短かに書いてあるはずだ。だが、患者本人は、決してそれを読むことはない。場合によっては、そこに書いてあることを知らされなかったり、全然違うことを告げられたりもする。いや、彼ないし彼女が本当に背負っている運命は、まだ誰にも分からず、したがってそこにも書かれてはいないのかもしれない。それでも、こうして、苦痛に耐えて、何時間もひたすら待って、そうして、今日という日を生きている。
それは、何という一日であることだろう。
僕は、今日は会社に休みをもらってここにきている。もちろん、月給制だからどうということはないのだが、でもその給料を時間に割って直すと、朝から今までの待ち時間だけでも結構な額になるはずだ。それと同じ時間を、こうして毎日過ごしている人達がいる。支払われている時間と、自分で持ち出すだけの、社会的には評価されていない時間。
だが、もしもその同じ時間を、僕は結局成約することのない契約のために駆けずり回って疲労し、さっきの老婆は一枚の花瓶敷を編み上げたとしたら、一体どちらが意味ある生活であることだろう。どちらの時間が、その人の人生にとって有意義な時間なのだろう。でも、その花瓶敷にしたところで、単なる暇つぶし以上のなにものかであるとも思いにくい・・・
そういう時間というのは、人生の一部だろうか。
もちろん、物理的にはその一部には違いない。しかし、本当に生きるべき人生、苦痛に耐えてまた次ぎの日を迎えるに値する人生の一部分を成しているのだといえるのだろうか。
それは、単なる時間稼ぎとは、どう違うのか。
そう、人生はつまるところ、死を待つことだ、と思ったことがある。
死ぬまでの間にする時間稼ぎの総体が、ほかならぬその人の人生そのものになっていく………
いつ、そんな思いにとらわれたのだろう。
目の前を、車椅子が通る。明るい蛍光灯が規則的に並ぶ長い廊下を、ゆっくりと滑るように進んで行く。しかし、その車椅子に乗った女は、極端に体を捩じって、言葉にならない声を発している。
その女が、不意に僕のほうを睨んだ気がした。
こんなことがいつかもあった。
そうだ、インドだった。