3.待合室で 3-1 酔っぱらいの夫婦
それ以来、その絵のことは忘れていた。その絵が、今、突然目の前に浮かんできた。
病院の廊下を行き交う人々は、白衣を着た看護婦達を例外として、皆、あのブリューゲルの絵の中の人物さながらに、ひたすらに「何か」をしようとしている。そして、待合室の椅子に座る患者たちは、一様にあの無表情という仮面を被って、視線をどこかに泳がせている。
待合室が広場になり、脳外科や耳鼻咽喉科や性病科の窓口が切妻屋根の家の連なりに変わり、ますます薄暗くなっていく空の下で、僕はその人々の喧騒の中にいた。
「おまえ、見慣れないやつだな」
酒を飲んで顔を真っ赤にした男がからんでくる。腹が異様に膨れていて、着ている服がはちきれそうだ。愚鈍な目をして、不精髭を生やしている。
「何でこんなところにいるんだ。え?」
こっちこそ聞きたいよ、そう言おうと思ったが、声が出ない。
「変なやつだな、おい、ちょっと来てみろよ」
そいつが振り返ったところには、かまきりみたいに細い首の女が立っている。薄汚れた前掛けをして、両手を腰にあてがい、精一杯の虚勢を張ると、僕のことをじろりと睨んでから、その男に言う。
「ほんとだ、よそもんだねえ。なに考えてんだか」
確かに、僕は場違いなところに迷い込んだのかもしれない。だが、一体何が起こっているのだろう。
「黙ってねえで、何とかいったらどうなんでえ」
男は酒臭い息を吹き掛けてくる。そのとき仮に声が出たとしても、僕は一体何をしゃべることができただろう。僕が震えていたのは寒さのせいだけではなかった。
「ちっ。いいか、ここはな、みんなそれぞれにいろんな事情があって集まってきているんだが、だれも自分の意思ではもう逃れられないんだ。見ろ、向こうで博打を打ってる奴は、昔の俺の相棒だが、奴が好いていようがいまいが、ああして死ぬまで博打を打ち続けなくちゃならない。そう、永遠にだ。あそこの女は、俺もよく知らないが、一生懸命大きな鍋に料理を作っては、出来上がると地面にぶちまけるんだ」
「………」
「だけれども、いいか、みんな真剣なんだぞ。文句一ついわずに、与えられた人生を生きてるんだ。つべこべ言っても始まらないからな。だから、おまえのように中途半端な気持ちで見物にこられたりなんかしたら困るんだ。今はおれとかみさんしか気がついていないからいいが、みんながおまえに気がついてみろ、袋叩きじゃあすまされまいな。悪いことはいわない。早くとっとと消え失せろ!」
男の声が、僕の頭蓋骨の中で大きく響き渡った。その声の反響が徐々に消えていって沈黙に変わった瞬間、僕は自分でも信じられないような大きな声を発していた。
「そうか、ブリューゲルが描こうとしたのは、そういうふうに運命づけられた『生』を生きていかなければいけない人間たちの姿だったんだ」
隣の椅子に座っている老婆が、驚いたように僕の顔を見る。そして、気持ち悪そうに、一列向こうの椅子に移ると、何ごともなかったかのようにレースの編み物をまた編み始めた。