5-2 会話力の序列
インドのカースト制度ではないが、人間にはこうした会話の力関係による階級、序列とでもいうべきものが確かに存在しているのではないかと思うことがある。
つまり、まくしたてる強者と、しゃべり負ける弱者の階層。これは、誰もが生まれながらにして背負っているもので、頭のよさとか声の大きさには関係なく、まして本人の努力とか環境の変化によっても絶対に崩れない序列だ。
ただ、こうしたことがあまり問題にならないのは、恐らくこの会話の階級序列と、社会的信頼度や好感度の序列はしばしば逆転していて、一対一では勝ち目のない人間が、世間的にはいい人であると評価されたり、その逆に、やたらとしゃべりたがる人に本当についていく人がいなかったりすることが多いからなのであろう。
それはともかく、アナウンスでその引っ詰めが呼ばれて診察室へ入って行った時のパーマの安堵の表情は、ダウン寸前でゴングが鳴ったときのボクサーのそれであった。
話し上手より聞き上手になれ、なんて言った人がいるけれど、本当だろうか。確かに、そのほうが一般的にいって人に好かれることは間違いないだろう。会話のシュードラ、いや、ハリジャンに徹すれば、そういう聞き上手を生け贄にしてしゃべり続けることでいい気分になれる奴も出てくるわけだから、これはたいした処世術だ。そういう生き方が、利益をもたらすことがあるといいたいのかもしれないが、自分を殺しっぱなしで生きてく人生とは、一体誰のためのものだろうか。
気がついてみると、向こうの方では、礼服を着て緊張した面持ちの老人が、リボンを巻き付けたマイクに向かって何やらしゃべっている。結婚披露宴のようだ。口は一つだが耳は二つ、というような言葉が聞こえてくる。なんだ、同じ話か。僕は、退屈しのぎにからみはじめる。そりゃあ、自分で言うよりも相手のことを聞いていれば、喧嘩は回避できるかもしれない。だが、そのようにしてやっと保たれる人間関係だったら、何やら寒気すら感じてしまうではないか。
もちろん、こういう場で語られる数々の言葉ほど、そこで行われているセレモニーに相応しくナンセンスなものはないから、いちいち目くじらを立てても仕方ないのだろう。
そもそも、結婚式というのは、これから結婚をしようと決めた二人を前にしておいて、大事にしろだの仲よくしろだの、挙げ句の果てにはお幸せにだの、要するに、いわれなくても当たり前のはずのことがもっともらしく語られる不思議なところだ。あまりにもっともらしく繰り返されるので、そのうちに、これはきっと本気で言っているのではないか、それほどに、本当は結婚というのは悲惨なことなのか、などと考え始めてしまう。
媒酌人とかいう役回りの男がメモなど見ながらしきりと新郎は優秀で新婦は優しい心の持ち主であることを力説しようとするのも、同じ動機に由来するのかも知れない。そうなってくると、不幸にしてその栄えある場に列席しようものなら、誰でもいい、とにかく一人を決めて、そいつが生あくびを噛み殺す回数でも数えていないと、耐え抜くことはできそうもなくなってくる。
そういえば、こんなのではない、もっと心に染みるような結婚式の光景を、どこかで見たことがある気がする。
どこだったろうか。