5.待合室で 5-1 二人の女
さっきの車椅子の女が、また久し振りに、僕をガンジスに連れていったようだ。
もちろん、彼女が、ただ『死を待っている』とは思わない。いや、おそらく、僕なんかよりもよほど深い陰影に満ちて豊かに充実した毎日、他者に煩わされることなく自分と向き合うことのできる時間を過ごしているのかもしれない。ただ、そうだとしても、その背負っているものの重さが、僕の平常心を揺らがせる。
若い時にパリに住んだ人には一生パリがついて回る、と言ったのは誰だったか忘れたが、それを言うならインドのほうがよほどそういう吸引力ともいうべきものが強い気がする。とりわけヴァラナシは、これまた誰の言葉か忘れたけれど、『世界の底にある町』なんだそうだ。確かに、世界の底、という称号にはそれ自体に有無を言わせぬ凄味のようなものがあって、この言葉に当て嵌まる町をほかに捜し出すことはまったく不可能に思えるし、それに、ちょっと油断していると、いつの間にか引き寄せられて、ガンジスの水に漬かっているような気にさせられてしまう。
病院も、『社会の底』だろうか。
普通に生活をしているときはその存在すら忘れているのに、一度ふとしたことで失速したりバランスが崩れたりすると、抗えない力に引き寄せられるように辿り着いてしまう。そして、誰もがそこを抜け出したくてもがきながら、しかしなかなか思うとおりにはならない。
今日だって、もうどのくらい待っているのだろうか。まさか二度と這い上がれないということはないだろうけれど、午前中に終わるのかどうかは心許なくなってきた。
近くの席でも、そんな風に時間をもてあました人達の会話が聞こえてくる。 三十代前半くらいの、髪を引っ詰めにした化粧っけのない女が、四十くらいの女にしきりと話し掛けているようだ。こちらは、パーマをかけて、化粧も丁寧だ。
引っ詰めが、自分の症状やら、それに対する医者の所見やらを、延々としゃべっている。きっと、出会う人間ごとに同じ話を繰り返しているのだろう。その話は、医学的な専門用語がふんだんにちりばめられ、同情を誘わずにはおかないようなエピソードが挟み込まれ、しかもまったく澱みがない。その話が、聞かされる方にとっては、それこそ何の役にも立たないことを知ってか知らずかはともかく、こうやって人に自分の話を聞かせることで優越感に浸り、気分を立て直せる人間は、どこにでもいるものだ。
案の定、パーマのほうは、その話にいちいちうなずきながらも、引っ詰めと会話を始めたことを後悔し始めている気配だ。時々、自分の話も始めようと試みるが、すぐに逆襲にあって、話の流れの主導権は変わらない。それどころか、そういう押し付けがましい話をする人間に共通の特色なのだろうが、必ず話の切れ目切れ目であいづちを求めるから、ますます深みにはまっていくことになる。
結局、同じ待ち時間の暇つぶしとして開始された会話であっても、一方的にしゃべるだけしゃべってストレスを発散させた女と、要らぬ話を長々と聞かされてストレスをためこんだ女の勝敗は歴然としていた。