4-5 死を待つ人々
確かに、そのとおりなのだろう。
だが、彼に『死を待つ女』と断定されてしまったことで、僕は、奇妙なことだけれど、さっきの恐ろしさとは別に、あの女に急に親しみのようなものを感じ始めたことに気がついた。と同時に、今、目に見えているこの町の裏側に潜む底知れないものを垣間見たような気がして、僕の関心はそちらのほうへと急激に移っていった。
「不思議な町だな。しかし、いったいそういう人々はこの町のどこにどれくらいて、何をして毎日を送っているのだろう」
「おそらく、この町のいたる所に、そういう『死を待つ人々』はいるのだと思う。そして、その大部分の人々は、どこかでひっそりとその日を待っている。もちろん、僕だって、そういう生活というものを覗いてみたい気はする。しかし、それをやってはいけない。多分、ツーリストとして許される範囲をこえることだ」
「なるほど、でも、君も僕も、人間である以上いつかは死ぬ。そういう意味では、同じ『死を待つ人々』ではないだろうか」
僕はいつの間にか議論を吹っ掛けていた。それはまったくの思い付きだったのだが、そのドイツ人はしばらく考えてから、ゆっくりと、言葉を選ぶようにいった。
「君のいうことは、ある意味では正しいかもしれない。しかし、やはりそうではない。君はまだ明日もあさっても、いや、きっと何年か先まで生きるつもりでいる。たぶん君は、何日か後にはタージ・マハルを見に行く予定になっているだろうし、日本に帰ってから会いたい人もやりたい事もあるはずだ。そういう意味では、君は決して『死』を『待っ』てはいない。それは、僕も同じことだけれど」
そのドイツ人学生との会話は、そこでおしまいになった。
本当は、もう少し反論をしたかった。たとえば、死ぬためにこの町にやってきたという人々にしても、けっして、もう何もしたいことがなくてただ一日も早く死ねればいいと思っているわけではないのではないか、その人達も、本当に自分が死を迎えるのはまだ先のことと思って毎日を送っているのではないか、そうではなく、純粋に死を待ちながら生きて行くことなど本当にできるのか、といったようなことを………。
しかしながら、いずれにしても推測の域を出ないし、そんな議論を果てしなく繰り返すより、もっとこのヴァラナシという町を歩いて、そこの人々の生きる姿を見た方がよさそうだと思った。
彼も、そうだったのだろう。
ただ、その時以来、『死を待つ人生』ということが、重く僕の心にのしかかっていて、もちろん、普段はどこかに隠れていて姿を現さないのだけれど、時々、そう、例えば癌の告知とか死刑制度なんかをあつかった新聞記事やテレビドラマを見たときなどに、突然、時空を超えてガンジスのほとりに立たされ、熱風と臭気と騒音の中で、癩の女に腕をつかまれるような気がするのだ。