9話 敬愛なる女(ひと)へ
眉間の皺を深くしたフローレンスが、ペンを置いて呟いた。
「……ヴィクトリア女王が下さったダイヤのブローチも遺族の方々から届く感謝状も、
本当は看護婦団員たちにこそ渡されるべき物だったのです。
私は兵士の命を奪っただけでなく、
彼女たちから称賛や名誉すらも奪い取ってしまったわ」
彼女の顔中に刻まれた皺は、長年の苦悩を物語っていた。
その言葉を最後に黙ってしまったフローレンスに、ハンクはゆっくりと顔を上げて看護覚え書を本棚に収めると、静かに息を吸い込んでから足取りも軽快にベッドへと歩み寄っていく。
そしてベッドの傍らにうやうやしく跪いた後、子供のような笑顔でフローレンスの膝に手を乗せ、驚くほど明るい口調で話し始めた。
「聞いて下さい婦長!
僕、父親の毛織事業を継いだんですよ!」
さあ褒めて下さいと言わんばかりの無邪気な笑顔にがらりと雰囲気を変えられたフローレンスは、一瞬だけ戸惑ってからその懐かしさに嬉しそうな笑みを見せた。
ハンクはフローレンスを見上げながら、小さく胸を張り得意そうに報告する。
「それから僕、
事業で得た私財を使って貧しい子供たちに読み書きを教えているんです。
去年ようやく初年度の生徒が修学を終えて、
それぞれが得意な職種に就けるよう世話もしました。
その生徒の中からは、ロンドンの貧民街で看護婦として働きたいと言う子も現れたんです!
僕もう嬉しくって、彼女の病院に手伝いに行ってしまったくらいで!」
正直な彼の興奮に慈愛の表情を見せたフローレンスが、穏やかな仕草でハンクの手をなで感慨深く頷いた。
彼女の肯定を受けて更に笑顔を咲かせたハンクは、フローレンスの両手を紳士らしくすくい上げ、その指先を軽く握ると意志強く真っ直ぐな視線で提言する。
「私は、
婦長が苦しみの果てに掴んだ看護の集大成を、
若い世代に受け継がせたいと思っています。
その為と言っては何ですが、
今月から毎月五十万ポンドをナイチンゲール看護学校宛に寄付すると約束します。
婦長の信念を守る為なら、私は幾らでも投資するつもりです。
足りなければ遠慮なく言って下さい、
これでもまだ婦長から受けた恩恵は返しきれないはずですから」
その賞賛に感嘆したフローレンスが、息を飲んで胸を押さえる。
そしてハンクの顔を両手で挟み込み、愛のこもったはしゃぎようで声を弾ませた。
「まぁまぁまぁ!
あんなに頼りなかった小さな犬っころが、
これほどまでに立派な実業家になるなんて!
初めて会った時少女のようだったあなたは、
一体どこへ行ったのかしら!」
彼女はそうからかいながら、ハンクの顔を引き寄せて額同士を押しつけた。
まるで少女が親友とするようなそれに、ハンクは参ったなと笑いつつ紳士の表情を取り戻すと、柔和で真率な口調を響かせて彼女に言った。
「進歩し続けない限りは、後退している事になる。
そうおっしゃったのは婦長でしょう?
現在私はジェントルマンですが、同時に看護婦でもあります」
それを聞いたフローレンスの脳裏には、看護婦の姿をしている幼いハンクの姿が思い出されていた。
曇りのない瞳で看護の教授を請うた彼に、フローレンスが問い掛けた言葉。
それが今になって紳士の口から発せられるとは、何という巡りあわせであろうか。
看護という一つの芸術が画一され、今ようやく自分の示した看護理念が伝承されていく。
この喜びは、彼女にとって言葉にできぬ神聖さであった。
ふっと小さく笑ったフローレンスは彼の頬から手を離し、二十年以上も悩まされた一つの決意に溜め息する。
それは看護婦という職業を嫌悪した母姉と決別した時に刻んだ
「同意して貰う事も、
共感して貰う事も、
助けて貰う事も期待してはならない。
そんな事は不可能で、戯れにすぎないのだから」
というものだった。
けれどもフローレンスは、それと相反する思いも根強く持っていた。
「自分の思っている事を何でも率直に話せる相手がいてくれたら、
どんなにありがたい事だろう」
と。
フローレンスに促されて椅子に腰を掛けた目の前の紳士が、そのありがたい相手ではないことは良く解っていた。
けれども彼女はつい日頃隠していた個人的な出来事を、さも懐かしそうな口調で話し始める自分をなぜだか止められなかったのである。
「……あなたは信じないだろうけれど、
私は若い頃に神の声を聞いたのです。
それはあまりに抽象的な短文で、
具体的にどうすればよいのか見当もつかない言葉だったけれど、
当時少女だった私はその声に従いたいと思いました。
自分が善行もせず役にも立たない存在だと強く自責していた事もあってね。
……結果的に神の声は看護へと私を導いて下さいました。
ですからスクタリ遠征が失敗だったと理解した時、
私は声を疑ったのです。
導かれたはずなのに、なぜこうなったのかと」
今までのフローレンスからは予想もつかない私的な話題に、座った椅子の上で服を整えていたハンクは驚いた表情で動きを止めた。
真意を求めて彼女の周囲を泳ぐ瞳が、悲しさの陰もなく微笑んでいるフローレンスに目を留める。
警戒心もなくふっくらと笑顔する薔薇色の頬に、ハンクは何ともいえない親近感を覚えて穏やかに目を細めた。
「苦しみから死の淵を彷徨いなぜか再び生きる事を許された私は、
ベッドの上で朦朧としながら一つの結論を得ました。
きっとこの間違いは、計画の一部なのだと。
なぜなら神はあえて間違いを犯す覚悟がある人々を必要とし、
その間違いの先にある『何か』を求めているからです。
小さな失敗が人をより良くするように、
深刻な間違いというものも森羅万象の計画にとって必要不可欠なのではないだろうか。
ならばその間違いが起こった事を必要以上に悔やみ自責をするより、
それより先にある『何か』を探し出す事が、
さら重要なのではないかと思えたのです」
聖職者の神々しさでそう話したフローレンスは、一息吐いてから悪戯っぽく肩をすくめ、普段通りの口調で浮遊する荘厳さを叩き落した。
「……まあ今思えばこの結論も、
昔聞こえた神の声も、
私の意識下にある願望が私に囁きかけただけの事でしょう。
おいそれと人間に話しかけて来たあの短文がもし彼の所業であったというのならば、
彼はもっと真剣に英語を学ぶ必要があると思います」
例え相手が全知全能の神であっても一切鈍ることがなかった彼女の口撃に、ハンクは不謹慎にも吹き出してしまった。
滑稽な様子で肩を震わせ、紳士の礼節と戦いながら笑いを堪えるハンクの様子に、当のフローレンスも思わず小さな笑い声を上げていた。
二人はしばしの間この静かな戦いに専念して腹筋を鍛錬していたが、ようやく落ち着いたフローレンスが深呼吸をし、少々上ずる声で話の続きを語り始めた。
「けれども、
間違いが計画の一部であり真の目的がその先にあると気付けた事は、
とてつもない赦しとなって私の体を救いました。
その大波のような力は凄まじく、
私を飲み込むと『何か』へと激しく押し進めてくれたのです」
――「大波に飲まれる」
その言葉に思い出を蘇らせたハンクは、気抜けしたリタが諦めきって呟いた「大きな波の中に飲まれて、全然抗えない」という言葉と、ハンクがスクタリで体験した『傷病兵が痛ましくも燦然ときらめく大波に見えた』あの感覚を思い出していた。
巨大な波、それは理性の中にあるこだわりやしがらみなどを超越した、大きな力と言えるだろう。
その絶対的な力は思慮や計算よりも先に自我をさらい、澄みきった真理へと無垢な精神を押し流していく。
ハンクが男尊女卑ともいえる常識を覆して看護婦の強さと矜持に承服できたのは、間違いなくフローレンスという存在が大きく彼を激動させたからであった。
厳しい学びを開始した頃「完璧なるもの以外は失敗」と言い放ち、凛とした姿を見せていた彼女。
その言葉を思い出すと、フローレンスがどれほど精神と体を痛めつけて今日に至ったのかを垣間見られた気がした。
――どんな命も重たく尊い
それを叫び続けた彼女の命もまた尊いと、ハンクは思う。
失敗、それを差し引いても余りあるほどに。
ハンクは敬愛のこもった視線で真っ直ぐにフローレンスの瞳を見つめ、
静かに、しかし意志強く声を出した。
「婦長。
私はあなたを、神よりも深く愛しています。
この気持ちはどんな統計をもってしても、覆される事は絶対にありません!」
庭先の花々が夏のそよ風に揺れ樫の梢が心地よい葉音を奏でるなか
煌く日光の香りに包まれたベッドの上で座るフローレンスは
今初めて自分という存在だけでハンクと対峙をしていた。
「……ありがとう、サマンサ」
そう言って美しく微笑んだ彼女はしげしげとハンクを見つめた後、まるで何かを解放するように晴天の白い雲へとグレイの瞳を移していった。
その温和なフローレンスの表情は、今まで誰にも見せたことのない、安らぎきった天使の表情そのものであった。
=完=
【あとがき】
この作品は2007年当時、なろうユーザーである雪芳様が代筆募集をなさっていたプロットをもとに、ぐろわ姉妹が製作させて頂いたものです。
数年かけて執筆し、公開できたのは2011年のことでした。ですがその後、ぐろわ姉妹が小説家になろうを退会したため、この作品も一度削除となってしまいました。
なろうを離れていた間も自分のホームページではずっと掲載していましたが、ほとんど訪問者のないところです。そんなところに作品を押し込めてしまったことを、雪芳さんにはずっと申し訳なく思い、また作品に対してももったいないことをしていると思っていました。
なろうでのご縁あってこその作品でしたので、再度こちらでの活動を始めた今回、改めて投稿させて頂いた次第です。
雪芳さんは当時、ご自身が医療の勉強をされているとおっしゃっていました。勉強中にナイチンゲールの「看護覚え書」をお読みになったのだそうです。医療の勉強をする者としていつか残したい、そう考えていらした思い出深い作品だったそうです。
その思いは、預けて頂いたプロットにも色濃く表れていました。プロット段階であるにもかかわらず、ストーリーはとても心惹かれるものでしたし、医療に携わる方だからこそ生まれたものだということが強く印象に残っています。
そのような雪芳さんの熱意が小説にもしっかり残せていれば、代筆させて頂いた者としては本当に嬉しいことだと思っています。
雪芳さんはとても寛容な方で、プロットは自由に改変なさってくださいとおっしゃり、ぐろわ姉妹に制作のほとんどを任せて下さいました。
そのお言葉に甘えて、私たちは多くの改変をしました。それでも、雪芳さんが描こうとなさっていたものは、ぐろわ姉妹なりの形で表現できたのではないかと思っています。
皆様にも、面白い作品だったと思って頂けたのだとしたら、幸いです。
最後までお付き合い頂き、どうもありがとうございました。
2016年5月24日
ぐろわ姉妹




