3話 担いでしまった片棒
汽車に乗ってから三日目の朝。
フランス南端のマルセイユに降り立ったハンクは、完全に回復した体力と久しぶりの『揺れない世界』にはつらつとしていた。
華やかさこそパリには劣るものの、様々な人種が行き交うマルセイユの港街はそこかしこに石造りの大きな建物が目立ち、商店や民家が立ち並ぶ地中海貿易の拠点であった。
フランスを縦断する鉄道と夢の地中海を繋ぐ大通りにはブイヤベースのサフランが香り、観光客相手のマーケットが軒並み営業している。
朝市で賑わう大通りを道なりに下っていくハンクの歩みは、
「マルセイユさえ出てしまえば父さんだってそう簡単には追っては来られないだろう」
という気持ちから、少々の早足になっていた。
ナイチンゲール率いるスクタリ派遣看護婦団一行を追う旅は、幼いハンク一人であってもそう難しいことではなかった。
なぜなら異国語の飛びかうマルセイユであっても、有名な彼女らの話題は耳をすましさえすれば街のあちこちから漏れ聞こえて来たからである。
「スクタリ派遣看護婦団は一週間ほど前にこの地を発ったから、もうすでにスクタリへは着いているだろう」
とか
「レディ・フローレンスは物憂げな表情が知的で、銀の鈴を思わせる美しい声は人の心を魅了した」
など、まるで街じゅうの人がスクタリ派遣看護婦団の軌道を示す案内板になってしまったかのようだった。
フローレンス・ナイチンゲールに思いを馳せる人々でにわかに沸き立つマーケットを早々に通り抜けたハンクは、港の入り口に隣接する発券所からコンスタンチノープル行きの蒸気船を見つけて一等船室の切符を一枚買った。
そして残り僅かになった旅費に溜め息を吐き、あと小一時間ある乗船待ちの時間を利用して伯母に手紙を書くことにした。
すぐ近くに設けられた待合ロビーに腰を下ろしたハンクは、旅行カバンを机がわりに抱き寄せて手紙をしたためる。
そして伯母の家を出たところから綴り始めた手紙の最後を、こう締めくくった。
「マルセイユからスクタリへ行く船の切符を今しがた買いました。
七日後には野戦病院の地を踏めるはずです。
必ずや、戦争に必要なのは男だと証明してみせます」と。
潮騒がまとわり付く待合ロビーで、二つ折りにした便箋を買ったばかりの封筒へと納める。
するとその小さな背中に、若い娘の品のないハスキー声がかけられた。
「ねぇ、あんた!
切符買うとこ見たわよ、あんたコンスタンチノープルに行こうとしてるでしょ?
どうして?」
ハンクが振り向くと、兄ドルスと同じ年頃に見える細身の娘が立っていた。
緩く一つにまとめられた髪と薄手で粗末な服装から下級労働者であることが見て取れたが、それよりも強烈にハンクの目を引いたのは、今まで見たこともないような濃さで施された、彼女の化粧だった。
やや面長のキャンバスの上で驚くほど細く整えられた眉の眉尻は高慢ちきに山を作り、眠そうなほど大きな二重はラピスラズリ色に塗られている。
気性の強さを思わせる上を向いた鼻、その下では厚みのある唇が真っ赤な口紅で彩られていた。
彼女の化粧に瞬きしたハンクは、昔見た芝居の道化師を思い出しながらも実に素っ気なく彼女の質問に答えた。
「コンスタンチノープルからスクタリへ行くの。
フローレンス・ナイチンゲールさんに頼んで、スクタリ派遣看護婦団に入団させてもらおうと思って」
そして宛名を書き終えた封筒を、すぐそばのカウンターで受付員に渡す。
封筒を受け取った受付員は、切手を封蝋がわりにしてその口を閉じた。
ハンクの言葉を聞いた娘は、顔の左半分に垂らした焦げ色の前髪をその緩やかなウエーブに沿って梳き、カバンを持って歩き出すハンクの隣でさも嬉しそうに手を叩いた。
娘が待合ロビーのざわめきにかき消されまいと、ハスキーボイスを張り上げる。
「スクタリに? 本当?
実はあたしもよ!
あたしもレディ・フローレンスを追っかけてんの!
ねぇあんた一緒に行かない?
あたしはリタよ、リタ・ヒン」
リタと名乗った娘に右手のカバンを奪われ、強引に握手を交わされたハンクは仕方なしに頷いた。
「私は……サマンサ。サマンサ・スミス。
……サムって呼んで、友達は皆そう呼んでいたから」
伯母の提案していた偽名『キャサリン』を蹴って、ハンクは自ら決めた『サマンサ』を名乗った。
女装を決め込み女として振舞うことを決心してはいたものの、人から『キャシー』と呼ばれることだけは何としても避けたかったのである。
思っていたよりも早く使われることになったその名を、にんまり顔のリタが早速呼ぶ。
「いいわ。よろしくねサム。
あたしサムにお願いがあるんだけど、いいかしら?」
「……よくないです」
初対面の者から早速お願いなどと言われ、ハンクは眉をひそめた。
それは社会的な人間関係の工程を幾段か飛び超えていたから、というよりはその言いぶりが悪戯を思い付いた時の伯母の表情と、あまりに似ていたからだった。
カバンを奪い返した後、歩調を速めて警戒心を露わにするハンクを気にも留めないリタは、白い息を吐きながら身を屈めると少女の耳元へと囁く。
「あんた今から船乗るんでしょう?
その切符見せる時、ちょっとだけ船員の気を引いててくんないかな?
っていうのもさ、あたし切符ないのよね、だから何とかして潜り込もうと思って」
リタの言う内容に「やっぱりか」と顔をしかめたハンクは、伯母よりも直接的に切り込んで来るリタにしばしの間閉口した。
行く先に目当ての蒸気船が見えたところで、ハンクが突然立ち止まる。
そして、きょとんとする厚化粧に向かってきっぱりと言った。
「悪いけど無理よ、切符がないならスクタリに行くのは諦めたほうがいい」
ハンクはそれだけ言うとくるりと背中を向け、さっさと歩き始める。
驚いたリタは慌ててその後を追い掛け、悲痛な様子で訴えた。
「……そんな、サム! ひどいわ!
あたし、お金がなくて切符が買えないの。
でも人を助けたい気持ちは人一倍よ!
絶対そこいらの看護婦よりあたしのほうが情熱あるわ!
それを切符がないってだけでここに置き去りにするの?
あぁ、お願いよサム!
あたしがこっそり乗り込む間だけ、船員と話し込んでくれればいいの。
ね? 絶対大丈夫だから」
女という生き物が用いる『大丈夫』がどれほど信用に当たらないことか、ハンクはその十二年の人生経験で早くも悟っていた。
伯母も母も、メイドのストレックでさえこちらを言いくるめる時には決まって『大丈夫』と取って付けるのだ。
「大丈夫ですよ。旦那様は怒ってなどいらっしゃいませんわ」
その笑顔に安心して父のもとへ行き、めちゃくちゃに叱られた記憶は二年たった今でも忘れてはいない。
歩くばかりで一向に耳を貸さずにいるお貴族少女にとうとうしびれを切らしたリタが、ハンクの手首を鷲掴み景気良く叫んだ。
「文句がないなら、いいわね? 頼んだわよ!」
強引に交渉を成立させたリタは、ハンクを引きずる勢いで走り出す。
彼女の力に抗おうとハンクは腰を引いて身をよじった。
「ちょっと! 私手伝わないからね、無銭乗船なんて!
ちょ、聞いてんのっ? リタ!」
だが頭一つほど背の高いリタの腕力は強く、抵抗も空しくハンクはあっという間に乗船待ちの列へと押しやられた。
この仕打ちに改めて反論しようと振り返ったが、既にリタの姿はなかった。
どこへ消えたのかと雑踏を見回しているうちに、後ろから気の優しそうな男性の声がかけられる。
「お嬢さん、切符を確認します」
気づけば十数人並んでいたはずの列はすっかり消え、開けた視界の先には、タラップ上に設置された無銭乗船者防止の柵が見える。
ハンクの背丈より少し高い防止柵の端には通行用の扉があり、その横では三十代ほどの男性乗務員が次の乗客である少女を見つめて微笑んでいた。
ハンクは慌てて乗務員のもとへと駆け寄り、波の音をこもらせるタラップにカバンを置いてコートのポケットをまさぐる。
その間ふと顔を上げたハンクは、物陰でそっとこちらをうかがうリタの姿とその視線に射抜かれ、驚きでぎょっと飛び上がった。
リタはまるで街角を歩く野良猫のように半身を物陰に擦らせ、流れるようにタラップへと近寄って来る。
そして乗務員の後ろを何気なくうろつきながら、ハンクに見えるよう「お願いお願いお願い」と聞こえぬ願いを呪いのように呟き続けていた。
救いを求めて後ろを振り向いたハンクだったが、悲しいかな、それを目撃する人は他に誰もいない。
右手に切符を見つけながらも、ハンクは迷い、左のポケットも探って見せる。
そんなハンクの様子を見たリタは、脅すように目を据わらせてその呪文にもいよいよどす黒いものを乗せ始めていた。
あまりの怨みぶりに背筋を凍らせたハンクは、右手をポケットから引き抜くと男性乗務員に一等船室の切符を手渡した。
「ああそうです、その切符です。拝見いたしましょう。
いやぁ、お若いのにお一人での御旅行ですか?」
「いや、まぁ、その……」
ハンクが口ごもると、乗務員はやや腰を屈めて目を細める。
「私もあなたくらいの頃に、一人で旅をした事がありました。
でもあなたはこんなに愛らしいレディなのに。御両親は大らかだ」
やはりどうしてもリタの手伝いをしたくなかったハンクは、早く話を終わらせようと曖昧な笑顔で顔を上げる。
しかしその目には、リタが乗務員のすぐ後ろを音もなくすり抜け、バッチリと片目をつむる光景が無情にも飛び込んで来た。
あっと声を出す間もなく、リタは乗務員が背中で守っていた柵の切れ目をその細身で難なく通り抜け、誰にも気付かれることなく乗船者の波へと消えていく。
彼女の姿は、ほんの一瞬で見えなくなってしまった。
鮮やかすぎる身のこなしに、ハンクは落ちそうなほど目を丸くする。
驚愕の視線が自分に向けられていると勘違いした男性乗務員は、自分の言葉が少女を怖がらせてしまったのかと慌て、優しく切符を渡して来た。
「御心配はありませんよ、レディ。
当蒸気船の中は街よりも安全です。
それにお客様のお部屋は一等船室Aクラスの個室ですから、
デッキからして上流階級の方々しかお入りになれません。
航行中、御不快を感じる事などありませんよ」
そう言った乗務員はにっこりと笑い、はっとしたハンクはお決まりの無難な笑顔を返して礼を言った。
カバンを持ち上げながら、悪夢でも見てしまったかのような脱力感に襲われ溜め息するハンクは、「だがしかし、これでリタとは縁が切れた」と思い心の奥から安堵する。
そして気を取り直すべく視線を真っ直ぐ前に向けた彼は、コンスタンチノープル行きの蒸気船へと高らかな足音で乗り込んでいった。
【マルセイユ】
マルセイユはフランスの南端、地中海に面した港街です。
貿易が盛んで、当時から多種の民族が街を行き交っていたようです。
名物料理は新鮮な魚介たっぷりの、ブイヤベース。