7話 リトル・ウォー・オフィス
緩やかに過ぎていったティータイムののち、使用人から郵便物を受け取ったフローレンスはそれらをざっと眺めてから脇へ寄せ、積んでおいた書類を手早く机上へと広げ直した。
そしてスクタリの看護婦塔で見た時と同じく、手にしたペンをさらさらと走らせ始める。
そんな彼女の姿に呆れ顔を見せたハンクは、カモミールの香りを思い出しながら口を挟んだ。
「婦長、今日は休んだらどうです?
……と言うよりも、今日くらいそのペンを激務から解放してあげてもいいのでは?」
彼の冗談に頬を持ち上げたフローレンスが、書類に目を落としたまま手先も止めずに首を振る。
「いいえ、休む必要などないわ。
私が休んだら、何かが進むかしら?
私のやるべき事は、まだたくさん残されているのよ」
クリミアで患った熱病により未だ心身衰弱しているはずの彼女の筆は、あの頃よりも速くなっているように見えた。
しばらくそのせせらぎに聞き入っていたハンクが、そういえばと声を出す。
「アンリさんが新聞に声明を発表したのを御存知ですか?
私も読みましたが、婦長の功績を高く評価したものでしたよ」
分厚い資料に精力的な視線を走らせていた彼女が、その細かい文字を遠目に読みながらハンクの言葉を聞き返した。
「え? 誰ですって?」
「アンリ・デュナン。
八年前に赤十字を創られた方です」
「ああ、デュナンさんね……」
素っ気ないフローレンスの返事に拍子抜けしたハンクは、焦れたように両腕を広げて身を乗り出す。
「そのデュナンさん、
スクタリで記者のふりして病院をうろついていた、
あのアンリさんですよ。
突然婦長の部屋に乱入して、私が男だったと告発した男性、
覚えていませんか!?」
「あぁ、あの時の男性……、
……記者?」
過去を探るべくして視線を上げた彼女だったが、その脳内に明確な人物像は浮かんで来なかったらしい。
彼女に恋心まで抱いていたアンリの存在に不憫さを感じたハンクは、哀れみの溜め息に今一度の説明を乗せる。
「嫌だな、あのもみ上げ、以前と同じじゃないですか」
だがフローレンスはとぼけた口調で首を傾げ、悪びれもなく彼の記憶を切り捨てた。
「あの時の男性、もみ上げなんか生えていたかしら?
赤十字設立の時、新聞に載った写真を見た記憶があるけれど……、
デュナンさんとは別人でしたわよ?
何度かやり取りした手紙の中にも、
デュナンさんが記者だった事は書いていらっしゃらなかったはずですもの」
痛快なまでの完敗ぶりではあったが、ハンクがこの事実に気付いたのも先日新聞に載った彼の顔写真を見てからに他ならなかった。
そのためフローレンスがアンリの存在を思い出せないことをこれ以上責めるわけにもいかず、彼は一人静かに『アンリの過去における小さな失恋』を陰ながら悲哀した。
◇
ペンの悲鳴が紙の上を走るなか、ハンクは整えられた本棚に一つの書籍を見つけると吸い寄せられるように立ち上がった。
アンリの声明でも素晴らしいと賞賛されていたその本を手にし、敬いの念からゆっくりとページをめくる。
「看護覚え書……。
私もついこの間、読み直したばかりです。
この本が出版されたと知った時は嬉しかったな。
もうずいぶん前の事になるのですね」
初版が出たのは彼が十八歳の時、看護婦に向けてではなく家庭を守る全ての女性たちに向けられたこの書籍は、専門書であるにも関わらず大衆層に良く売れた。
健康を保つための基本を易しく説いた文章は実用的且つ具体的で、街の女主人たちはこぞってそれを実行したのである。
『看護覚え書』は『換気や暖房』、『物音』から『おせっかいな励ましと忠告』にいたるまで様々な項目を魅力的に書き綴り、読んだ人々が「そこらの小説よりも格段に面白い」と賛辞するほどに評判であった。
しかしフローレンスはハンクの言葉に黙り込んでいた。
そしてしばしののち、ゆっくりと口を開いた彼女は真剣な声色で言い放った。
「読み直したのならば、気が付いたでしょう?
スクタリでの死亡率が四十パーセントを超えていた原因が、
妄信的で的外れだった私の看護理念にあったという事に」
ハンクが視線を上げると、手を止めたフローレンスは厳しい眼差しでこちらを見つめていた。
けれどもこの痛みさえ感じる厳しさは、間違いなく彼女自身に向けられていた。
戦後のフローレンスを死の淵に追いやった大きな衝撃は、今尚彼女の心身に鮮やかな傷口を晒している。
そしてその凶器は、間違いなく今語られた真実だった。
「婦長……」
フローレンスは悲壮美すら感じられる表情でハンクを見据え、冷たさの漂う言葉を続ける。
「あなたスクタリの病院にやって来た衛生委員団を覚えているかしら、
肘まで小麦粉だらけになってパンを焼いて下さったタロック大佐に、
物資補給調査をなさっていたマクニール卿。
私は帰国後、彼らと共に統計学者のウィリアム・ファー氏を迎えて
『スクタリ病院での異常なる兵士の死亡率』を徹底的に分析解明したのです。
勿論、無能なる陸軍と非情であった政府を糾弾する為にね」
ふっと自虐的な微笑を見せる彼女に、看護覚え書を持つハンクの手はじっとりと汗ばんだ。
彼は声も出せないまま、老いてなお鷲の瞳で背筋を伸ばす彼女に、鼓動が強く痛むのを感じていた。
「……結果は
『死亡した兵士のうち七十パーセント以上を、
病院の不衛生による病死と認める』。
……残酷だったわ。
兵士を衰弱から救うために必要な物品を充実させるという私の理念よりも、
衛生を徹底した彼らのほうがはるかに人命を救ったのだと、
統計上はっきりと証明されたのですから」
あの凛とした彼女を、死の闇へと引きずり込んだ正体。
それは、英雄と謳われた彼女自身だったのである。
【19世紀のロンドン、衛生事情】
中世からの不衛生がはびこるロンドンは、ひどく汚い都市だったといいます。
その中でも特に悲惨であったのは糞尿の処理です。
便所という施設よりもおまるを使うことが多かったようで、更に用を足した中身の処理方法が「窓から投げる」という暴君ぶり。
これだけでも街が大変な状態であったとお分かりいただけると思います。
そして特に恐ろしいのは、高い窓からの汚物処理。
もちろんそれらは恐怖の大魔王となって地上へと落ちていきますので、運が悪いと通行人は容赦のない直撃を受けるんだそうです。




