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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第9章 戦後、終わらぬ戦いを胸にして
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5話 担うべきもの

 マルセイユ行きの船に揺られるハンクは、船尾で佇んだまま遠くなっていくクリミアを見つめていた。


掌中にある青い小壷の口を封印する油紙が、やけに冷たい潮風に煽られて乾いた音を鳴らしている。


ティーポットほどの大きさのそれは、目の醒めるような碧色の中に塵となった兄の遺灰を納めていた。


 幼さがこれほど無力なものかと辛辣する少年は、虚無となった胸の中に父が放った諌めの言葉を繰り返していた。


『――お前はイギリスで、お前のやるべき事をしなさい』


 次第に霞み始めたクリミアは目を離せばもう捉えられぬほど、薄く儚い色合いで空の中に滲んでいた。


ハンクは重くなったズボンの汚水に戦争で散じた兵士の命を、掌中で冷える小壷からはその家族の悲しみを痛感させられる。


そしてその痛みは、父にひしがれたはずの思いを燻りあげさせるものであった。


 ◇


 イギリスに戻ってからの日常は、両親の希望により酷く過保護なものになっていた。


乗馬も川遊びも新聞までもを禁じられたハンクにはいつでも誰かが付き添い、どんなに近所であっても外出時は必ず馬車に乗せられた。


過剰に世話を焼く両親をハンクは従順に受け入れ、彼らがはらむドルスを失ったことによる恐怖や悲しみを容認した。


彼は混沌とした心の燻りと対峙しながら芸術や学問を大量に学び、父親の毛織事業の経営から母親の家政のことまでも貪るように吸収していった。


 オーベルト郷紳の命で一切届けられなくなった新聞では、クリミアで病に伏したフローレンスの容態が毎日書き記されていた。


イギリス中の人々が耳をそばだて一刻一刻気遣うなか、スクタリの兵舎病院に戻った彼女が完全に危機を脱したとニュースが流れた日には、ロンドン中が喜びで沸き立ち行き交う人々が抱き合って祝福するほど歓喜していたという。


もはや彼女はイギリス国民を熱狂させ、崇拝させるほどに天与ある英雄と崇められていた。


そしてスクタリで回復期を過ごしたのち、彼女が国に帰らずもとの地位にとどまる決心をした時も、大衆は強い感銘を受けて彼女を賛辞したのである。


 そんな騒動を露も知らず、ただ闇雲に成長を求めて吸収する日々のなか、ハンクは両親に勧められて参加した社交界で噂された話題から、フローレンスの回復と療養のスクタリから再びクリミアに渡ろうとしている彼女の決意を知らされた。


その瞬間、クリミアを離れてからずっと広がるばかりだった虚無の穴が安堵とともに埋まり、彼女の鋼鉄とも称すべき確固たる意志に中てられたハンクの頬は不謹慎にも緩んでしまった。


胸に燻り続けていたか弱い炎が破顔に反応して燃え上がるのを確信した彼は、熱く滾る希望の炎に重大な担いとも思える目標を見出していた。


炎はハンクの行く道を煌々と照らし、一筋の光となって進むべき先の人生を示している。


彼は両親に賛同されないであろうこの目標を、したたかに潜めて過ごすことを決意した。


そして時が成長と機会をもたらしてくれることを、種のように待ち望んだのだった。


 ◇


 早春を迎えたイギリスで、ハンクはようやく両親から許されたフローレンスへの手紙を綴っていた。


モーニング・ジュエリーのお礼と、先日済んだリタの埋葬を報告した彼は、残りの数行にいたわりの文言を走らせて迷いもなくピリオドを打つ。


両親の検閲を経て封印されたそれは、父が宛名書きをして郵便配達員に渡していた。


ハンクはこの少し他人行儀な手紙を最後に、戦場のフローレンスとは一切の連絡を取ることはなかった。


 そして彼はスクタリで働いた半年間を忘れたかのように、過保護という毛皮の中で平穏に過ごしていった。


毎日澄んだ瞳で楽しそうに生活する息子の変貌ぶりに両親は歓喜したが、人知れず配慮して精一杯の笑顔で明るく振舞う彼は、自分の決意した目標に向かいながらいつ何時もフローレンスの苦境を案じていた。


暗い看護婦塔で語られた、彼女が経験したという何十年もの忍耐を思えば、これくらいの配慮など何の困難でもなかったのである。


それよりも今為すべきことは、一刻も早く両親を癒して正常な状態に戻って貰うことだった。


 数週間後、街から戻ったオーベルトは、フランスにおいてパリ条約が結ばれたと叫びながらラウンジへと飛び込んで来た。


感極まって泣き出す妻とかわいい息子を固く抱きしめたオーベルトが、力のまま握りしめていた新聞を広げ、二人と頬を寄せ合いながら何度も何度もパリ条約締結の記事を読み続けていた。


 ハンクはそれから一ヶ月後に和平宣言が締結されたこと、終戦により役目を終えた野戦病院が一つ一つ閉鎖されていったことを、父の持ち帰る新聞をこっそりと盗み読むことで知った。


インクの香る味気ない紙面に舞い踊った「終戦」の文字が、十三歳の胸に潜められた目標を揺り動かす。


「やるべきこと……」


 それはもう、ハンクの中で完全なる計画となって機を待っていた。


 ◇


 マッシュキンスの隣で御者台に座る彼からも、あの時と同じ思いが漏れ出ていた。


「お前のやるべき事をやりなさい……」


 重大な担いを照らす光の道は、まだ目の前に続いている。


 いつまでも忘れることのできないズボンの重みと小壷の冷たさが、目標に近付きつつあるハンクの高揚に、首をもたげてうずくまっているように思えた。






【エクルスケーキとサマープティング】

 イギリスの伝統茶菓子であるこの二つは、古典の英小説にも登場することがあります。


割と有名なのはサマープティングのほうでしょうか。


いろんなベリーを甘く煮込み、パンを敷いた型へ流した冷菓です。深い赤紫色が特徴的で、とても見栄えのするお菓子です。


 日本では見ることがありませんが、イギリスでは定番のエクルスケーキ。これはパイ生地の中にカレンツが入った、菓子パンに近いもの。


とても美味しいそうですが、日本では出会えないお菓子かもしれません。

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