4話 ハンク、その顛末
「……兄さん」
兄を失った胸中の虚に共鳴する闇と心寂しげな風の音が、ハンクの感情をごとりと動かそうとした。
一度動けば止められなくなるその感情を押さえ込んだ彼は、雑踏を求めてドルスの収容されていた野戦病院へと吸い込まれていく。
父親を待つだけのつもりで入った院内は、汚物の腐敗臭と遺体の放つ強い死臭が充満していた。
耳をふさぎたくなるほどに響く不快な羽音と悲痛な呻き声は、かつてのスクタリ兵舎病院と同じ地獄を思い起こさせた。
兄は、ここで死んだ。
なぜ自分は兄を探してここへ来なかったのだろう。
誰にも看取られず、一人で死んでいった兄――。
心の表面をかすめ去るように走ったその思いに、ハンクの足は前へと押し出された。
許可もなく院内に踏み込んだ彼は、水溶便で汚れた床に放置されている患者の中から一人の痩せた兵士のもとに歩み寄ると、微塵のためらいもなく両の膝を床へとついた。
ハンクは不快な汚水が膝を濡らすのも構わず、赤黒い包帯で包まれた兵士の顔をそっと覗き込む。
そしてヒトジラミにたかりつくされた兵士の手を両手で包み込んでから、絶え絶えに息をしている患者へと、優しい声色でゆっくりと話しかけていた。
「大丈夫ですか?
苦しいところは、ないですか?」
息を乱した兵士は突然現れた少年にすがり、声を振り絞って死の恐怖を訴えた。
ハンクはそれを受け止め、頷きながら患者の手を握りしめる。
「ええ、大丈夫ですよ。
私が、ずっとここにいます」
見開いた眼球に安堵を灯した兵士は、ほどなく全身を痙攣させて最後の呼吸に肺を鳴かせた。
力を失ったその両手を軍服の胸で組み合わせたハンクは、次から次へと瀕死の患者を看取っていく。
拭った汚れと吸い上げた汚水で、スーツのズボンはずっしりと重くなっていた。
十数人目の患者を看取って立ち上がるハンクの背に、聞き覚えのある声がかけられた。
「サマンサ……ちゃん? なの?」
振り向くと、そこには蝶のようなブレースブリッジ夫人が立っていた。
彼女はハンクの顔を見るや驚愕し、その視線を彼の服装へと走らせる。
「ああ、ごめんなさいサマンサちゃん!
私があんな手紙を書いたから、男装してまで海を渡って来たのね!」
ブレースブリッジ夫人はハンクの男装を計り知れない決断の表れだと理解して、こんな幼い少女が一人で果敢にも危険なこの地までやって来たのだと涙した。
労をねぎらうように頬をなでてくるブレースブリッジ夫人の存在に、ハンクはこの病院がフローレンスのいる病院なのだと直感させられた。
彼は背筋を走った衝撃に、全身の毛が立ち上がるのを感じながら急いた口調で問いただす。
「婦長は、婦長はどこですか!
婦長に会いたい!」
「落ち着いてサマンサちゃん!
婦長にはもう意識が――」
彼女の言葉を聞くやいなや、ハンクは爆ぜて駆け出した。
目に映った扉と言う扉を開けて回り、追い掛けてくるブレースブリッジ夫人の制止も聞かずに病院の奥へと進んでいく。
数十枚は開けたであろう頃、ハンクは遂にベッドで横たわるフローレンスの姿を発見した。
ベッドの周囲に並ぶ数人の医師の先で見え隠れしている彼女は、青白い顔で昏睡しているように見える。
止まりそうな息を切らして部屋へと駆け入ったハンクを、一人の医師が冷静に押しとどめた。
「何だね君は、
ここは関係者以外、入室禁止だぞ!」
静止を聞き入れずに振りほどこうともがく不審者に、別の医者も抑止へと加勢した。
力では押し切れぬと悟ったハンクが医師の手を払い退け、一歩引いてから膝をついて懇願する。
「私はスクタリ派遣看護婦団の一員、サマンサ・スミスです!
どうか私にも、婦長の看護をさせてください!
お願いします!」
息を乱して駆けて来たブレースブリッジ夫人が、呆気にとられていた医師たちに間違いなく看護婦団員であると説明する。
赤裸々に涙してすがりつく男装の看護婦に、医師たちは困惑しながら顔を見合わせると、同情的な声色で
「とにかく、部屋の入り口で少し落ち着きなさい」
と指示を出した。
希望の表情でそれに従うハンクを、ブレースブリッジ夫人は心配そうに立ち上がらせる。
婦長の看護ができると安心したハンクは、母のように抱きしめてくれるブレースブリッジ夫人に身を任せていた。
けれどもその平穏は、突然に打ち砕かれた。
ハンクの腕が折れるほどに引かれ、その身がブレースブリッジ夫人から乱暴にも引き剥がされたのだ。
驚くハンクの目に映っていたのは、一家の瑕瑾を見る恥と看護という不埒さに憤慨する、見たこともないような父親の表情であった。
オーベルト郷紳が、感情の代わりに怒声を爆発させる。
「止めなさい、お前はもう帰るんだ!
これ以上看護などさせはしない!」
両腕を掴まれたハンクは、対峙する父親の表情に全てを理解した。
どう抗えども、変えることのできない現実。
けれどもハンクは、それに従うことなどできなかった。
臆することなく暴れた彼は、父親から逃れようと叫び散らした。
「患者には看護が必要なんです!
看護婦は、看護をするために存在する!
看護を必要としている私の恩人が、患者となってそこにいるんだ!
絶対私が看護する! 離してくださいっ!」
どこから出たのだろうと思う程の力が、太い腕を力任せに振りほどいた。
父親に背を向けて駆け出したハンクが医師を押しのけようともみ合ったところで、その体は再びオーベルトによって引き戻される。
怒りで紅潮した顔を振り返らせたハンクの耳に、唸る風の音が聞こえた。
次の瞬間、頬が重い衝撃で打ち据えられた。
世界が揺れ、ハンクには何が起こったのか、理解ができなかった。
ただ一つ解ったのは、自分がいま力なく床に倒れ込んだということだけ。
そしてどこか遠くのほうから聞こえて来る父親の声が、ハンクを諌めようと怒りを燃やした口調で叫んでいるということだった。
これから先どんなに父親を怒らせようとも聞くことはないであろうその声は、
「まだ目が覚めないか!
お前はイギリスで、お前のやるべき事をしなさい!」
と絶対的な現実を突きつけて来る。
すがり付きたい希望を奪われ、現実から逃げ切れなくなったハンクは、脈打つ頬の痛みになど気付いてはいなかった。
彼はただ、昏睡するフローレンスの痩せこけた横顔だけを見つめていた。
【トルコの陶磁器】
トルコはとても美しいタイルを焼く伝統のある国です。
タイルの図柄は数あれど、主に着色で二系統に分けられます。
白地にターコイズとコバルトのみ着色、というタイルと白地にターコイズとコバルトのほかに、ローズレッドやオリーブグリーン、線画用のブラックがあるタイル。
ブルーばかりのタイルは900年ほど前のものが多く、色彩豊かなタイルは600年前から現代まで続く技法です。
トルコ近辺では古い宗教建築などにタイルが沢山使われており、その図柄の精密さと密集度、発色の美しさには目を見張るものがあります。




