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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第9章 戦後、終わらぬ戦いを胸にして
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3話 兄のもとへ

 あの日。


病を知らせる乱文にフローレンスの無事を願い叫んだハンクは、近付いて来るその足音の主が低い声を響かせる男性であるということに、何の危機感も覚えてはいなかった。


塔内に響いた男女の言い争いは扉の前で立ち止まり、ハンクを心配していた看護婦たちも自然とそちらに視線を移していく。


 突然ノックもなく開かれた扉の先には、その非常識さからは予想できぬほどれっきとした紳士の姿があった。


 紺色のスーツを着た紳士は部屋にいる看護婦から投げ掛けられる不審の視線をものともせず、一歩踏み込んだ看護婦部屋の室内を張り詰めた表情で懸命に見渡していた。


その必死な形相に無礼さを許したシスター・エリザベスが、紳士の後ろで申し訳なさそうにしているトルコ娘たちに「ここは私が」と目配せをして下がらせる。


彼女たちの足音が遠くなるなか、シスター・エリザベスはふくよかな笑顔で紳士に優しく声をかけた。


「どなたかお探しのようですが、

私にお手伝いできますかしら?」


 その親切な修道女の問いに答えようと思考を走らせた紳士の顔が、ある一点を見つけた途端に集中する。


信じられないと言いたげなその顔には、怒りと安堵が入り混じっていた。


居並ぶ看護婦の中から一際か弱いその顔を捉えた瞬間、紳士の緊張感は流れるように解け、彼はその足をひどく疲れきった様子で急がせた。


皆の視線を一身に受けるハンクが、唖然とした呟きを落とす。


「父、さん――?」


 放心する我が子の小さな体をひしと抱きしめたオーベルトは、普段の彼には見られないほど弱々しい、悲しみに支配された声をやっとの思いで搾り出した。


「ドルスが……、

ドルスが、死んだ……」


 嗚咽に掻き消されて聞き取りにくい父親の声に、ハンクは我が耳を疑った。


「……兄さんが、……死んだ?」


 放心したままでオーベルトの言葉を繰り返したハンクは、満ちる潮のようにゆっくりとその言葉の意味を理解していく。


鮮烈な恐怖にわなわなと震え始めた彼の脳裏には、兵士たちの悲惨な死が生々しく翻っていた。


院内で遭遇してきた現実が兄の身にも降り掛かったのだと、ハンクは容赦なく確信させられた。


 硬直して震えるハンクの様子に、自らを律して呼吸を整えた父親がゆっくりと話し始める。


「……十三日前、手紙が一通屋敷に届いた。

中には訃報と……、

これが入っていた……」


 ハンクの肩をなでながら優しく話したオーベルトが、ウェルトポケットから小さな紙包みを取り出して、恐れの残る手つきでそれを開いて見せた。


他愛のない羊皮色の紙の中には、見慣れた栗色の毛髪がたった一房だけ入っていた。


 頭の奥をつんざくキンとした耳鳴りに顔をしかめたハンクは、この受け入れ難い事実を肯定することも、否定することもできないでいた。


もやのかかった意識のなか、父親の眉間に刻まれた苦悩の皺だけが、やけにはっきりと目に焼き付いていた。


「これっぽっちの遺品では到底信用できん、

だから自分の目で確かめて来ると言ったんだよ。

そうしたらカミーラ姉さんの口から、お前もここにいると」


 全ての音が遠のいているのに、震えたその声が安堵を増したことが解る。


「まったく、何て格好だ……」


 そう言ってオーベルトはハンクの体をもう一度抱きしめた。


幾分痩せたように感じる息子の細身に、緊張の解けた父親からは咽び声が上がっていく。


 ハンクは動くことを忘れたような自身の体を父親に預け、看護婦部屋の窓を黒く染める夜の暗闇を、ただ力なく見つめることしかできないでいた。


  ◇


 兄の訃報に虚脱したハンクは、たゆたう意識と混濁する記憶に翻弄されて十数日を過ごしていた。


その間、父の言う通りに体を動かし、父の望むように返事をしたように思う。


きっと黒衣の制服も自分で脱ぎ、このチャコールグレーの小さなスーツに着替えたはずだ。


もうひっつめる必要のなくなった少年らしい短髪は、スクタリを出る船を待つ間に町の床屋で切った気がする。


 気づけばハンクは父に連れられ、夕日照るクリミアの地に下り立っていた。


誰かの案内で大きな野戦病院の外壁沿いに裏庭へと進み、日陰になった簡易墓地へと進んでいく。


数人の手で掘り出されて地上へと引き出された棺を、ハンクはただ無言で漫然と眺めていた。


 開けた棺の中で変貌している亡骸に泣き崩れた父親は、牧師に促されるまま変わり果てたドルスを火葬にすると了承した。


 棺を囲む薪に火が放たれる直前、オーベルトは薪の山を見つめたままでハンクに言った。


「……見るのか?」


 最初から同意など求めていないであろうその乾いた声色は、息子の死を精一杯に受け入れようと悲壮していた。


ハンクは僅かに首を振り「少し遠くで待っています」とだけ言うと、背を向けて夕闇迫る草原をあてもなく歩き始めた。


青嵐に波頭を光らせて乱舞する夏草の中を、夕日に背を向けたハンクが風上へと進んでいく。


 ゆっくりと蒼さを増していく風になぶられ空に白い星が輝き始めた頃、彼はようやく振り向き天へと立ち昇る細い煙と、その下で激しく燃える赤い炎とを静かに見つめた。


火の粉が時折、藍色の空に昇っていく。


かつて兄であったかもしれないそれは、そこに浮かぶ星々の一つとなり溶け込んでいくようだった。






【クリミアの病院】

 スクタリの兵舎病院が完全なる衛生を運営できるようになったころ、前線地クリミアの病院は衛生委員団を追い出さんばかりに妨害していました。


衛生そのものへの関心がなかったともいえますが、やはり大きな反発理由は自分たちの利権を脅かされると心配したからです。


彼らは戦争の混乱に乗じてたくさんの不正を行っていたので、それを守ろうと躍起になっての行動でした。

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