10話 人間の向上
あの重大な秘密に口をつぐむと約束してくれたアンリは、その後すぐに「勤めの銀行に戻ります」と挨拶をしてアフリカへと帰っていった。
それから十日が経ち、スクタリは五月の初旬を迎えていた。
六週間前には想像もできなかった清潔な環境と上質な看護は、院内に蔓延していた感染症を制圧し、入院患者の死亡率を劇的に引き下げていた。
死の影から解放された患者たちは療養中の楽しみである毎日の食事をこよなく期待し、また料理人のソワイエはそれに応えるべく蓋付鍋で熱いスープを配ったり、大きなポットで淹れたての紅茶を配ったりして見せた。
フローレンスの後ろに付いて院内を見回りしていたハンクが、イレブンシスのティータイムにソワイエが大きな拍手で迎えられる光景を見て、いつぞやフローレンスが口にしていた主張を思い出す。
「心豊かに食べるという事は人生を彩る大きな要素であり、
人間はそれによって健康に生きる事もできるのです」
ハンクの記憶を読んだかのように聞こえて来たフローレンスの声に、彼は隣を見やった。
聖母のような笑顔のフローレンスが言葉を続ける。
「体への看護が充分になったのならば、
次に整えるべきは精神への看護です」
「精神への……看護?」
◇
大きくて頑丈そうな木製の棚が数人のトルコ人人夫によって運び込まれていくその先は、フローレンスが数ヶ月前に私財を投じて修繕した病院の一角であった。
院内の環境が良くなったことで収容人数が減り、ここ数日空き部屋になっていたこの大きな病室を、フローレンスはトルコ人の妻たちと共に手際良く清掃していた。
次から次へと運び込まれる棚の置き場所を指示するのは、てきぱきと荷ほどきをしていたハンクである。
「棚は、こう、
背面を抱き合わせて並行に整列させてください。
通路の間隔は、そう、そのくらいがいいかな」
並んだ棚に大量の書籍を収めていくハンクは、背表紙からも見て取れるその多様性に驚いていた。
暇つぶしに読めそうな本から難しそうな専門書まで、その様々な品揃えにハンクが感嘆の声を上げた。
「婦長、凄いですね!
エドガー・アラン・ポーから、ソクラテスまで。
うわぁ、ガリヴァー旅行記にロビンソン・クルーソー!」
今すぐこの場に座り込んで読み始めたいという衝動を抑え、ハンクはえいと本を収めた。
彼の様子に口角を少し上げたフローレンスが、本棚に本を収めながら話し始める。
「医師たちの主張する『一般兵が人間以下だ』という考えは、
きっとすぐに変える事ができます。
人間らしい生活さえ整えば、患者は知識を尊厳に変え、
粗暴さは方正へと変わる事でしょう。
よい環境でよい精神を養えば、
人はきっと素晴らしい向上心で成長をするのです。
勿論、患者以外の人もね」
ハンクの脳裏では、まだ酒におぼれたり盗みを働いたりする看護兵十数人の姿が思い出されていた。
確かにあの化石みたいな少数派がもっと真摯に働いてくれたのなら、看護はより効果的に回るはずなのだ。
しかし、はたして本当にそう上手くいくのだろうか。
そんなハンクの考えを見透かしたかのように、フローレンスは優しく答えた。
「きっと変わりますよ。
私に、そうリタが教えてくれたのですから」
リタの名にはっとしたハンクが、驚きの表情でフローレンスを見やる。
すると彼女はさも当然のことを話すかのように、さらりとした口調で次なる計画を宣言していた。
「これからは本だけではなく、
望む者には惜しまず学問も教授しましょう。
彼らが知識を得て勤勉になれば、
堕落の闇は永遠に消えるはずですもの。
この読書室が整ったら、次は隣を成人学級用の講義室にします」
驚愕するハンクをよそに、ふと思い当たったフローレンスが声を出す。
「あらいけない、
そのためには紙とペンが足りないわ、
早速送って貰えるよう方々へ手紙を書かなくては」
後のことをハンクに任せて読書室を後にした彼女は、講義室ができあがるまでの数時間で信じられないほどの手腕を発揮し、軍を通さずとも送金できる文民化された郵便制度を開始させていた。
患者や看護兵たちが酩酊するまで飲酒してしまうのは、軍による送金システムが非常に面倒な手続きによって支配されているからに他ならない。
なぜ愛する家族に送金するだけのことに何枚もの書類が、それに上官やら役人やらの許可が必要になるのだろうか。
そんなもの、住所と宛名と内容物の控えさえあればすぐにでも送れてしまうことなのに、と以前から常々断言していたフローレンスは、内閣から届いた正式な許可証を用いて遂に本日、院内郵便局を設置したのであった。
細長く丸められた博物学一覧図と地層図、そして分厚い百科事典などを抱えて帰って来たフローレンスにハンクが駆け寄り、それらを受け取りながら彼女へと開局の祝福を伝えた。
「郵便窓口の設置、おめでとうございます。
お喋りなシスター・エリザベスが小鳥みたいにさえずり回って報告していましたよ」
彼女の様子を容易に想像したフローレンスは、実に愉快そうな微笑でハンクに言った。
「そう、それは良いわ。
きっと彼女の声ならば、患者たちの耳にも届いている事でしょう」
◇
祖国の家族を思う患者と看護兵たちが給与を手に郵便局へと行列する光景は、驚くほどすぐに見ることができた。
そして彼らは有り余る時間を使って読書をし、政治や経済、数学や哲学を論じ合った。
次第に看護兵は一人の人間として患者を尊重するようになり、進んで彼らを看護し笑い合うまでになっていた。
看護婦たちにはできなかったその男らしいやりとりは、清々しい雰囲気で病院内を明るくしてくれていた。
【イレブンシス】
1日に幾つかあるティータイムのひとつで、午前11時に供され軽いお菓子などと一緒に紅茶を飲む習慣。簡単に空腹を満たすこの習慣は、現在モーニングティーと呼ばれることが多いようです。




