9話 真実に報いて
数時間にも思える数秒が過ぎ、顔を上げる恐ろしさに震えていたハンクは、この沈黙の意味に諦めの瞼を下ろした。
きっと彼女はハンクを軽蔑し、冷徹な声色で解雇宣告をするのだろう。
(――もうだめだ)
何もかもが崩れてしまうと覚悟した彼の鼻腔に、つんとした痛みが走る。
ハンクはフローレンスが置いたペンの音にぴくりと体を動かし、まるで窮鼠のように息を潜めていた。
顔を上げずとも解るフローレンスの視線が、頭の先から爪の先までをじっくりと眺めていく。
鋭く重厚な声が、ハンクの名を呼んだ。
「サマンサ・スミス、
顔を上げなさい」
心臓の止まる声に従い、ハンクは強張った体と血の気のない顔を起こす。
真っ直ぐに見つめたフローレンスの表情は、襲い掛かる眩暈のせいで不鮮明に映っていた。
ハンクは倒れてしまいそうになる体を細いブーツの脚でしっかりと支え、騙していたことをもう一度詫びようと息を吸う。
しかし次の瞬間、ハンクの耳に届いていたのは、さもおかしそうに笑うフローレンスの声であった。
フローレンスはぽかんとした顔で彼女を見ている二人のうち、背の高いほうに向かって話し始める。
「まったく、
天地の引っくり返ったような顔をなさっていらっしゃるから何かと思えば、
重大な事件が起きたですって?
今更何ですかそんな事、
彼女に『玉』があるかないかくらい、
私は最初から分かっておりましてよ」
堂に入った淑女の口振りでリタでも言わない下品な単語を口にしてみせた彼女に、アンリとハンクは目を丸くして顔を見合わせた。
そしてはっと顔を戻すと、二人同時に声を出す。
「最初から!?」
この見事なシンクロナイズに、そうよと片眉を上げたフローレンスが再び上品に笑いながら席を立ち、ハンクに歩み寄るとその頭を優しくなでた。
荒れた細い指が麻色の前髪を直し、驚き顔の両頬をそっと包み込む。
彼女は悩める子羊を救う聖職者のように悠然と、且つ聖母のように愛情深くハンクに言った。
「サマンサ、
あなたはどんな時も逃げ出さず、
健全で模範となる看護を行いました。
それはあなたが、
もう既に立派な看護婦であるという証です。
……私にとってあなたは、
あなたと同じ重さの金よりも価値のある人間なのですよ」
大きく目を開けたまま驚き続けるハンクを、気品あるグレーの瞳がしっかりと見つめ、最後の言葉を続けていく。
「まだここに残りたいと思うのなら、
あなたはここにいればよいのです」
そう言ってクリミアの天使は、患者を励ます慈愛の笑顔をハンクに見せた。
この溢れんばかりの愛に、ハンクの胸は戸惑うほどに温められていく。
「婦長……!」
少女用に作り変えられた黒衣の制服や、少女らしく切られた前髪、ハマムの回避など、数々の出来事は彼女の密かな心使いだったのだと気付かされたハンクは、運が良いと自惚れていた己を強く恥じていた。
突然押し掛けた資格なき者であるにも関わらず、隔てのない指導と正しい叱咤を行ってくれた彼女の熱意に、ハンクの心は強い思いを湧き立たせる。
彼女の評価に、報いたい。
意志強くフローレンスを見つめるハンクの唇が、ゆっくりと声を出した。
「残ります。
俺、この戦争が終わるまで、残ります!」
アッシュグレーの瞳の中に燃え上がる決意を見たフローレンスは、ハンクの言葉に頷いてアンリへと向き直った。
「――それにしたって、あなたもあなたね、
この『犬っころ』が少女に見えて?」
唖然としていたアンリは、表情を戻しながら取り繕って顔を覆う。
「い、今なら少年に見えますが」
「あらそう?
お年の割には、女性を見る目がないようね」
皮肉っぽい冗談でアンリをからかったフローレンスはストーブのところまで歩き、三日前にでき上がったばかりのガラス窓を押し開ける。
夕刻前の爽やかな風が通り抜けるその窓から、彼女は雲を見上げて言った。
「少し、昔話をしましょう」
ハンクたちを振り返ってから、フローレンスは溜め息と共に話を始めた。
彼女の目がすっと過去を見つめ、悲しげに眉根が寄せられる。
「十七の頃、私には看護婦の友人がいました。
初老の彼女は低い身分であったけれど実に知識溢れる有能な女性で、
彼女の経験から培った考察は実に魅力的で興味深く、
聖書の如き崇高さを漂わせていました」
何十年もの生活苦にさらされた彼女の身は決して潔白ではなかった、と語るフローレンスは肩をすくめて言葉を続けた。
「家柄、階級、環境、
全てにおいて恩恵を受けられなかった彼女だけれど、
それでも充分に素晴らしく、賢い女性だった。
彼女は命の尊さと、その平等性を誰よりも理解していたのです」
彼女を思い出して言葉を続けるフローレンスの瞳が、遠くを見つめて曇り始める。
「……けれど、彼女はある日突然死にました。
村人から盗みの罪を着せられ、
野蛮な私刑の果てに野たれ死んだのです。
身持ちの悪い看護婦だから犯人であろう、
という端的な決め付けだけでね」
フローレンスの語る彼らの中に、ハンクは半年前の自分を見せつけられたようでそっと視線を俯かせた。
「私は、彼女の息絶えた場所で誓いました。
看護婦に対する世間の偏見を何としても取り除かねばと。
いえ、それ以上に看護という職が厳粛なる専門技術によって成り立つ、
非常に優れた仕事である事を人々に認識させなければならないとね」
気丈に語られたこの悲壮な告白に、アンリが静かな声で呟く。
「それでレディ・ナイチンゲールは、看護婦団を……」
肯定の表情で頷いた彼女は、金色の斜陽に照らされていた。
フローレンスはハンクに歩み寄り、彼の冷たい手を両手で包むと穏やかな口調で言った。
「どんな命も、等しく、尊い。
それを理解した優秀な看護婦が、
男性であるあなたにも引き継がれた事を、
私は幸福に思っています」
ハンクは俯いたまま、無数のあかぎれが刻まれたフローレンスの両手を見つめていた。
頭の中で過去の自分を自虐的に卑下していたハンクの手が、そっとフローレンスの近くに引き寄せられる。
驚いて見上げると、ハンクの手は祈りの形に組みあげられ、それをフローレンスの手が包み込んでいた。
そして彼女は頭を垂らして瞳を閉じ、銀の鈴と称された声色で静かに祈りを呟いた。
「あなたに、神の御加護がありますように」
ハンクの頬を、一筋の涙が流れ落ちていく。
彼は解けた緊張に少しだけ微笑み、瞳を閉じて頭を垂れた。
金色の光が射す窓枠に美しく収まった二人のシルエットに、アンリは言葉を失いその荘厳さに高揚の滲む溜め息を漏らしていた。
【夕日に照らされたコンスタンチノープル】
フローレンス・ナイチンゲールは、夕日の頃にスクタリ野戦病院の崖沿いの道近くを散歩するのが好きでした。そのすばらしい眺めを、彼女は家族への手紙で以下のようにしたためています。
―海はガラスのように静かで、混じりけのないサファイアのように真っ青。
コンスタンチノープルの丸屋根や尖塔は日没の鮮やかな金色を背にくっきりと浮かび上がり、いつも雪をいただいているオリンポスの山の下からマルマラ海まで延びている遠くの丘は、東方でしか見ることのできない「透明なオパールのような色」をしていました。




