2話 お金で買うべきもの
ハンクが目を覚ましたのは二、三時間後のことであった。
揺さぶり起こしてくる若い女性の顔を、ハンクは寝ぼけ眼で見上げる。
「お目覚めですか、ミス・スミス。
外からお呼びしましてもお返事がありませんでしたので、無断のまま入室してしまいました。
どこか具合でも……?」
客室を清掃に来たメイドが、心配そうにハンクの顔を覗き込む。
ハンクは冴えない頭で首を振り「大丈夫……、疲れて眠っただけだから」と答え、自分がサマンサ・スミスという偽名でこの旅に出ていたことを思い出していた。
「そうですか、とてもお疲れだったのですね……御病気でなくて良かった。
……あ、きっと今頃、スミス様のお迎え人も港で心配なさっていらっしゃいますわ。
だってもう他のお客様は、皆様船を下りられましたもの」
その言葉にはっと目を開いたハンクが、急速に始動させた脳内で状況を把握する。
定期船はもうすっかりドーバー海峡を渡り終え、夜の闇を湛えたフランスのブローニュに停泊していたのだ。
現実を知ったハンクが慌てて飛び起きた次の瞬間、彼の腹からは大仰な虫の声が船室いっぱいに鳴り響いた。
衝撃的な恥ずかしさで動きを止めた少女の姿に、メイドが思わず笑い声を漏らす。
懸命になって笑いを堪えるメイドの滑稽な姿に、今度はハンクがおかしくなって笑い声を上げてしまった。
若いメイドは、今までよりも少しだけ砕けた声色でハンクに言った。
「スミス様、よろしかったらコックに何か作らせましょうか?
……もちろん港のお迎え人には、もう少しお待ち頂く事になりますけれど」
◇
メイドに連れられて入ったキッチンで若いコックが薦めてくれたのは、フライドレバーテリーヌのサンドウィッチであった。
ハンクはこの願ってもない夕食を待つ間、これからここで余り物を夕食として食べるのだと話す二人と楽しい談笑を続けた。
そのまま彼らとキッチンで夕食を共にしたハンクは、初めての気取らない立食会に心を和ませ、サンドウィッチとスタッフミールを交換し合いながら名もない一度きりの料理を存分に堪能した。
二人が申し出た見送りを忙しいだろうからと断り、両手に荷物をぶら下げた少女は夜のブローニュを鉄道の駅へと歩いていった。
初めて訪れたフランスを楽しむ間もなく、広い構内でマルセイユ行きの汽車を探すハンクが、人混みに翻弄されながらやっとのことで目的の真っ黒な車体を目に留める。
その脇で切符を売る販売員から寝台個室の切符を購入し、ハンクはすぐ乗車待ちの列へと並んだ。
大枚をはたいたため手持ちの旅費は急激に減ったが、こればっかりは伯母との約束で破るわけにはいかなかった。
ハンクには、ナイチンゲールのもとに着くまでの間、守らねばならないことが幾つかあった。
その一つが「乗り物では、絶対貴族にふさわしい個室切符を取ること」。
一見浪費的で快適を求めただけに見える行動だが、これによってハンクは数々の危険から身を守ることができていた。
何もかもが初めての一人旅においてハンクが親切にされ平穏な旅を続けられたのも、この約束を守っていたからに他ならない。
もし彼が切符代を浮かせようとして下級ランクの相席切符を取っていれば、下品な素行の者や日銭に困る者たちと相席になり、盗みや人さらいにあう可能性、果ては命を落とす危険すらあったのだ。
それゆえ伯母はしっかりハンクに言って聞かせ、彼もまたそれを勘良く感じ取っていた。
安全な貴族たちの群れに紛れて夜行列車に乗ったハンクは、一人でくつろぐには充分な広さのある客室へと入り、女らしく振る舞わねばならないこの環境から逃れるべく部屋の内鍵をしっかりと閉めた。
そして汽車内を探索したい気持ちを抑え、とにかくこの疲労を癒そうと決意する。
「何で女ってのは……こんなぎゅうぎゅうでひらひらな服着るのかな……。
靴だってきついしさー……」
そう文句を呟いたハンクはベッドに腰を掛け、編み上げブーツの紐を解いて脱ぎ捨てると、続いて胴体を締め上げていた枯穂色のドレスも脱ぎ捨てた。
帽子も脱ぎ、その中で結われていた髪もほどき、全ての束縛から解放されたハンクはシフトと呼ばれるアンダードレス姿で力一杯背伸びをする。
気持ちよさそうな唸り声を上げてから腕を下ろし、数回屈伸をした彼は勢い良くベッドに飛び込んでいた。
【ドーバー海峡】
ドーバー海峡はイギリスとフランスの間にあって、その距離は最狭部で34キロ。
当時の船でもそう時間を要せずに渡れてしまう海峡だったことでしょう。
遠泳に心得のある方なら泳いで渡れるとか、渡れないとか。