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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第8章 死神はついにスクタリを追い出され
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7話 悪戯な誘惑の果てに

「さぁ、まだまだ張りきって看護するぞっ!」


 決起の拳を握りしめたハンクが意欲溢れる唇を真一文字に引くと、力強い足取りで目的の洗濯小屋へと駆けていく。


墓地を抜けた歩道は数歩で渡りきれる小さな橋があり、その下には病院のキッチンと座浴槽からの排水を流す下水溝が作られていた。


レンガで成形されたそれには蓋がなく、海へと向かう緩い傾斜をさらさらと涼しげな音が流れていく。


ハンクは水面きらめく橋の上で足を止め、その規則的な流れに誘われるようにして下水溝の脇を歩き出した。


単調な水音に癒されながら歩を進めるハンクは人が通れる分だけ切り開かれた藪と茂みを越え、遂には海を目前にした見晴らしのよい丘へと辿り着く。


 下水溝の終点を見ると、丘に掘り下げられた大きな穴へと続いていた。


数メートルほどの深さがある大穴を恐る恐る覗き込んだ彼の目に、キッチンから出る野菜くずや中庭で掃き集められた落ち葉などが投げ込まれた大穴の底が見える。


そこに水を排するもう一つの下水溝が、泡立った洗濯水を大量に落としていた。


忙しい時間帯のせいか少し水位の上がった大穴に落ちる排水の音は、ハンクに一つの郷愁を感じさせた。


「……」


 ハンクはスープボウルに入ったミルクティー二杯を思い出しながら小さく身震いした。


まだ少し遠いその場所に急ごうと歩き出した彼を、大穴に流れる排水音が水妖ウンディーネのように誘惑する。


その甘美な囁きは少年の多感な心に深く染み入り、その断固看護婦であるという心と秘密厳守を言い聞かせる強い歩みとを激しくためらわせた。


数ヶ月抑圧されていた貴方を私が解放してあげると手招きするウンディーネが、妖艶な仕草で少年の手を取り人気のない大穴へと誘っていく。


哀れハンクは邪に悩む短時間で急激に高まってしまった生理的な欲望に、最後の抵抗をつい緩めてしまった。


 誰も見ていないからという確信でうっすら残っていた背徳感を押さえつけたハンクがごそごそと黒いスカートをまさぐり、取り出したそれを手で押さえて狙いを定める。


しばしの後、三重奏トリオとなった水音はハンクを至福の解放感で充足させ、健全なる男性顕示欲は極上な安堵から快感の溜め息をもたらした。


 一つ音階の高い演奏が続くなか、まだまだ続く放物線を心地良く見つめるハンクの耳に、遠くから男の声が届く。


「おーい、サマンサー!」


 久しぶりに聞いたその声は、ハンクの周囲で花びらを舞わせていた楽園を、血生臭い地獄へと瞬く間に変貌させた。


「ア、アンリさん!?」


 驚きで一瞬乱れたものの放出され続けるそれをそのままに、狼狽したハンクは落ち着きなく周囲を見渡し、懸命になって彼の姿を捜索する。


「どうしたんだーい、そんなところで!」


 先程よりも幾分近くなったその声に後ろを振り向いた彼は、病院近くの下水溝で手を振るアンリの姿を見るや大慌てで放物線の緊急停止を命令する。


だがしかしそれは無情も却下され、アンリが小走りで近寄って来るこの事態を持ってしても意志強く排出され続けていた。


「だっ! だだだだめ、アンリさん、来ないで!!」


 聞こえているのかいないのか、お構いなく近寄り来るアンリにハンクはこのままスカートを下ろして振り向こうかとも考えるが、果たしてそれはどこまで彼をごまかせるものなのかと自問する。


その戸惑いが、ただでさえ短い時をいたずらに過ぎさせていく。


アンリはもうハンクのすぐ後ろまで迫っていた。


 切り開かれた茂みを抜けた彼はいつも通りのスーツ姿で朗らかに笑顔し、焦茶色のひげ面をもさもさと動かしながらハンクに話しかける。


「今日はね、君にお別れの挨拶に来たんだよ。

ここで会えてよかっ――」


 ハンクの後ろ姿を見た途端、アンリはそのありえない放物線に言葉を失った。


 必死に背を向けて決定的な部位は隠したものの、ごまかしようのないそれを見られてしまったハンクはやっと止まった部位を振る間もなく、大急ぎでスカートを降ろした。


驚愕の表情で唖然と立ち尽くすアンリにハンクが駆け寄り、神に祈るが如く胸の前で両掌を組んでから彼の足元に跪くと、ハンチングの影に隠れたアンリの顔を見上げて悲痛な表情で懇願する。


「お願い! 

誰にも言わないで、アンリさん! 

これには訳が、訳があるの! 

えっと、女の子だけどやってみたかったっていうか! 

あの、やれば意外とできるんじゃないかとか! 

あ、違う、その、実験? してた……」


 慌ててごまかしを織り交ぜたハンクだったが、まったく反応を見せないアンリの眼に見つめられ続けたせいで、次第にその行いが馬鹿らしく思えて来た。


それに応じて脱力をした彼の声は、滲む観念で切ないほど小さくなっていく。


 痛々しい沈黙がハンクの身を切り刻み、うららかな春の風は二人の間を虚しく駆け抜けていった。






【三重奏】

 おもに小規模な室内楽で用いられる演奏形式で、種類の違う楽器がそれぞれ違う旋律を演奏する。その美しいハーモニーはゆったりした曲調が多く、ピアノ三重奏や弦楽三重奏など様々な楽器で三種を取り合わせる手法が存在するが、そのどれもが大変に優雅な音色で演奏を行う。


 結婚式の食事中に流れている曲か、病院の待合室で流れている曲、と思っていただければ概ね正解である。

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