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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第8章 死神はついにスクタリを追い出され
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6話 春の訪れ

 着工から一ヶ月半に及んだ病院の修繕は、スクタリが春の陽気に包まれる四月の下旬に完了した。


病院施設のみならずその周辺と港へ下る坂道までもを整備舗装した衛生委員団は、片づけが終わるや否やすぐ前線へと向かう身支度を整え始めていた。


せめて一晩だけでも感謝の夕食会を、と願い出るブレースブリッジ夫人の誘いをやんわり辞して、彼らは柔らかい日の射す昼下がりに玄関へと立ち、別れの挨拶を口にしていた。


「それではこれで」


 やって来た時と同じく淡々とした口調でそう言ったサザランドは、手にしていたコークハットを被りながら、玄関で見送る看護婦団に背を向けた。


次は前線にある野戦病院を浄化します、と言った彼らの背中がゆっくりと坂を下りていく。


ハンクは彼らを見送るフローレンスの横顔に満ちた希望の色を、団員が並ぶ列の端からそっと見つめていた。


その初めて見る彼女の安らいだ表情は、きっと今日から何もかもが上手くいくと確信させるような、強い喜びを放っていた。


衛生委員団の消えた坂道をしばらく眺めていたフローレンスが決意も新たに振り返ると、居並ぶ団員たちを見渡して意気揚々と声を上げる。


「さぁ皆さん、

彼らのおかげで様々な雑事が減りました。

今日からは更に患者への看護を充実させるよう励みましょう!」


「はい、婦長!」


 弾むような声を返した団員たちが、皆笑顔で午後の持ち場へと戻っていく。


首相への手紙をすぐに書かなければと自室に戻るフローレンスを見送り、ハンクは洗濯小屋の様子を見に行こうと舗装も美しいレンガの歩道を歩き出した。


病院の外壁に沿って歩くハンクの目に、小高い茂みで小さくほころぶピンク色が飛び込んで来る。


それは昨日まで枯れ枝だった梢に花咲いたハナズオウであった。


「わぁ……」


 ハンクは枝を包むように咲き誇るハナズオウに見とれ、思わず手折った一本を手に病院の裏へと駆け始める。


彼がキッチンの裏口を横切った時、勝手口から顔を出したブレースブリッジ夫人が、いつも通りの優雅な声をかけた。


「あらサマンサちゃん、

どちらにいらっしゃるの?」


 ハンクは駆けたまま振り返り、彼女に向かって腕を上げる。


「リタのお墓に! 

きれいな花を見つけたんだ!」


 その答えに慌てて手招きをしたブレースブリッジ夫人が、両手に抱える銅鍋を掲げてハンクを呼び止めた。


「それではこれをお持ちになって、

今朝焼いたばかりのショートブレッドですのよ!」


 歓声を上げて戻って来たハンクに、彼女は鍋の中にぎっしり詰まったショートブレッドバーの山を見せると、その中から形のよい数個を取り出して言う。


「患者さん用なのですけれど、

リタちゃんにも差し上げましょうね。

サマンサちゃん、

私たちの分もお参りして来て下さいますかしら?」


 彼女の申し出を快諾したハンクは、鍋から漂う甘い香りに鼻を鳴らした。


可愛らしいハンクの仕草をさも愛しそうに見つめるブレースブリッジ夫人の後ろから、クラークがスープボウルの二つ乗ったトレイを手にして顔を出す。


「この紅茶をリタと一緒にお飲みなさい。

トレイは私が片付けますから、

ボウルも置いたままにしていいわよ」


 ブレースブリッジ夫人が差し出しされたトレイの端にショートブレッドを置き、それを手に取ったハンクはボウルから立ち上る慣れ親しんだイギリスの香りを胸一杯に吸い込んだ。


懐かしくて心地よいミルクティーの香りに溜め息したハンクが、春の日差しにも負けぬ笑顔で二人に言う。


「どうもありがとう!」


 手を振り見送る二人に背を向け、ハンクはミルクティーをこぼさぬようにゆっくりと歩き始めた。


美しく舗装されたレンガの歩道は踵の音も心地良く、ぬかるみに触れることのなくなったブーツは病院内を泥まみれにすることがなくなっていた。


頻繁に行っていた玄関の水拭きや靴掃除、黒衣の裾に滲みた泥汚れの洗濯などから解放された団員たちは、より院内の衛生に取り組むことができ、物資の充実は看護のみならず人々の精神をも豊かにしているようだった。


 ハンクは暖かい風に吹かれながら、ふと見やった病室の窓辺に見える患者たちの笑顔にフローレンスの強い愛を思い出していた。


  ◇


 振り返ること数日前。


フローレンスは強い意志と堂々たる確言さをまとい、微塵の恐れもなくイギリス女王ヴィクトリアへと直訴を行っていた。

彼女は


「無計画で支援すらない前戦地で、

衣食を絶たれた兵士たちが寒さに震え、

病に苦しまねばならなくなった責任が

最高指令機関の陸軍になくてどこにあろうか」


と真摯に論じた。

するとヴィクトリア女王は快くその主張を聞き入れ、寛大なる指先でペンを走らせると


「病気で入院している兵士の減給率を、

戦闘の負傷で入院している兵士と同額に押さえるように」


と記した手紙をすぐさま政府に送ったのであった。

 増えた給料と軍からの通達でその事実を知った兵士たちは、勇敢なるクリミアの天使が与えてくれた愛に応えようと一途なまでに身を律した。


その行動は実に健気で、ほとんどの患者が浴びるように飲んでいた飲酒をしなくなり、下品な言動を差し控え、苦痛に耐える力さえも身に着けたのである。


そればかりか自分より重症な仲間の面倒も進んで見るようになり、患者は誰もが互いの存在を励ますようになっていた。


  ◇


 自暴に支配されていた患者たちが明るい笑い声を上げる光景と、隔離収容していた軽傷患者が次々に退院する現状は、医療従事者たちの自信と希望を少しずつ取り戻させていった。


ハンクは今日も兵舎病院が穏やかであることを喜びながら病院裏までやって来ると、殺風景なリタの墓前に対座しトレイを地面に置く。


可憐なハナズオウを手向けてから湯気の上がるスープボウルを供えたハンクは、エプロンの腰紐に挟んでおいたハンカチーフを引き抜き、それをボウルの隣に敷いて二本のショートブレッドを乗せながら話しかけた。


「リタ、みんなとっても張りきってるよ! 

病院はもう見違えるようだし、物資もたくさん回り始めた。

ほら、焼きたてのショートブレッドも、

淹れたての紅茶だって飲めるようになったんだ!」


 うららかな春の日差しのなか、紅茶を飲みながら他愛のない話題を報告するハンクは、次第に自分の心を整理するかのように語り始めていく。


「今までにないくらい、たくさん患者が退院しているよ。

彼らは多分、戦場に戻る……。

けれど俺は、それでも患者を助けたいんだ。

どんなに不毛でも、俺は婦長のもとで兵士の命を救いたい。

それが俺の『戦い』だから」


 そう呟いてから最後の一口を飲み干しボウルを戻したハンクは、お供えを収めきった苦しさに小さな溜め息を吐く。


そして手を後ろに付き、青く晴れ渡る空を見上げて草木を芽吹かせる心地よい風に前髪を揺らした。


死神が居座っていると言われたこの病院にも尊厳ある環境が訪れたように、暗く悲しい戦争もきっともうすぐ終わるのだろう、何の根拠もない願望にも似た希望であったが、ハンクの胸にはその思いが春の陽光のように満ちていた。







【ハナズオウ】

 文中に出てくるハナズオウはセイヨウハナズオウです。この木はマメ科で、萩のような花が金木犀のような咲き方で枝につきます。地中海周辺に自生しているので「ユダヤの木」とも呼ばれるようです。


 どうやらこの俗称が他人種間で転じて「ユダの木」となり、キリストを売ったユダが首を吊った木「ジューダスツリー」となったとか。


 けれどもユダが首を吊ったという木は他にもあり、イチジクであったり、ポプラであったり、ニワトコだったりします。ニワトコにはキクラゲが生えるのですが、それを「ユダの耳」とも言うそうです。そう言われると、何だか食べづらいですね。

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