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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第8章 死神はついにスクタリを追い出され
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5話 生まれ変わった野戦病院

 病院の修繕工事が始まって二週間が過ぎ、院内は一階の修繕と中庭の清掃整備が全て終了していた。


軽傷者が搬入された回廊と病室は一週間たっても清潔が保たれ、洞窟のように暗かった院内も今では光に満ちていた。


こもっていた死の影も全て消え去り、定時になると漂ってくるパンの香りは患者の生きる喜びを呼び覚ましていく。


 衛生委員団の働きに毎日目を輝かせるフローレンスは、ことあるごとに「彼らは他の役人たちとは違う、とても有益なことをもたらそうとしてくれている」とハンクに言って聞かせていた。


一階の修繕が終わった今日、彼女は昼食前の小休止に患者の見回りを兼ねて一階の回廊を一周しようと提案し、すっかり生まれ変わった院内を看護婦団員たちと歩いていく。


 うっとりする美しさとなった回廊では、ベッドでくつろぐ患者たちが身を起こして本を読んだり、所持品の手入れをしたりなど、思い思いに過ごしていた。


しかし中には、暖かい陽だまりで紙巻きタバコを吸ったり数人で集まり酒を飲みあう者がいたりと、風紀の乱れも目に付いた。


けれども皆、看護婦団員の姿を見るや親しげな挨拶と深い感謝の言葉で迎えてくれ、憎みきれない人の良さを感じさせてくれる。


団員たちは見回りに入った病室で楽しそうな歓声をあげ、見違えるように健全になった兵士たちと交流しては、まるで少女のようにはしゃいだ笑顔を見せていた。


 ゆっくりと回廊を進みながらその光景に目を細めていたフローレンスが、後ろで仕えているハンクに言った。


「何と尊厳に満ちた空間でしょう。

衛生委員団はこの病院の死亡率を大きく減らすために、

私たちでは到底できなかった、とても重要な事を執行下さっている。

これは何物にも変えがたい特効薬です!」


 フローレンスの喜びに笑顔を返したハンクが、晴れやかな瞳でガラス窓を見やる。


「窓からの光があるとやっぱり気分がいいですね。

泥沼みたいだった中庭もあんなにきれいになったし、

まさかサザランドさんたちが本当の庭にしてくれるなんて驚きました」


 窓越しに見える中庭はレンガ舗装の道がたおやかに蛇行し、その傍らには黄色ほころぶプリムラ・エラチオールと真っ赤な花弁のチューリップが植えられている。


無機質だったポンプ周りには、白いラナンキュラスと紫のヒヤシンスが跳ね水を受けて輝いていた。


咲き始めたばかりの花々に心穏やかな視線を流すフローレンスが、窓から差し込む陽だまりに歩み入る。


「もう少し暖かくなったら、

体調の良い患者には日光浴をさせてあげましょう。

きっと元気になるはずよ」


 そういって庭を眺めるフローレンスは、見たこともないほど平穏な笑顔を見せていた。


 ◇


 香ばしいパンの香りが漂うキッチンの前まで歩いて来ると、ハンクは目をつぶって鼻を鳴らし、前を行くフローレンスへと話しかけた。


「いい匂い。

タロックさんって本当にパンを焼くのがお上手ですよね。

野戦地で焼きたてのパンを食べられるなんて、夢にも思いませんでした」


 優雅に振り向いたフローレンスが彼の幸せそうな笑顔に頷きを返し、次第に香ってくる料理の匂いを胸一杯に吸い込んで溜め息した。


「けれども驚いたわ、

タロック大佐にパン焼きの趣味がおありとは」


 衛生委員団が到着した日。


他の委員が下準備に走り回るなか、アレクサンダー・タロック大佐は一人キッチンに入り込むと、そこで指揮を取っていたクラークに丁寧な挨拶を済ませていた。


それから彼はいそいそと袖を捲り、持参の荷物を広げるやいなや一生懸命にパンを作り始めたのだった。


肘まで小麦粉だらけになった彼は、小さなオーブンを休みなく動かしながら『焼きたてのおいしいパンは健康によいのだ』と語り、これこそが今の兵士たちに必要だと豪語していたのだという。


 キッチンの水場でトルコ娘たちとジャガイモの皮を剥いていたクラークが入り口からこちらを眺めてくる視線に気が付き、嬉しそうな笑顔でフローレンスのもとへと歩み寄ると、彼女は興奮を抑えきれない様子で両手を広げ、周囲を満たしている上等な匂いに感激の声を上げた。


「あぁフローレンス様! 御覧になって下さい!」


 そう言って示されたキッチンテーブルには、グリーンピースのクリームスープがボウルで湯気を上げ、皿には程よい焼き加減のローストビーフとコテージパイが熱々の状態で並んでいた。


この信じられない御馳走に羨望の歓声を上げたのは、いつの間にかハンクの後ろで群れを成していた団員たちであった。


彼女たちの声に振り向き、料理を美しく取り分ける手を止めた色男が、先頭にいるフローレンスに軽い挨拶をした。


「仕事始めだしね、

昼食は挨拶も兼ねて特別に御馳走だ。

弱って食べられない人にはポリッジを作ったから心配いらないよ!」


 そう笑って仕事に戻った彼の名は、アレクシス・ソワイエといった。


今朝早く病院にやって来た彼は内閣の陸軍大臣パンミュア卿に全権を委任され、フローレンスを助力せよと駆けつけたのである。


ロンドンのクラブでフランス人料理長として有名だったソワイエは、上流階級者をホストするセンスとユーモアがあるだけではなく、役人の冷たい視線をものともせず調理場に入り、栄養豊かで美味しい本物の料理を作り出す剛腹さを持ち合わせていた。


フローレンスはすぐに彼を気に入り、ソワイエも彼女への協力を惜しまなかった。


 キッチンではタロックの焼いた温かいパンと、ソワイエの作り上げた素晴らしい料理とが給仕のワゴンに乗せられ、次から次へと廊下に並べられていく。


この奮い立つ光景に後ろを振り向いたフローレンスが、待機している団員に向かって晴れやかな指示を告げた。


「さぁ、昼食の準備ができました。

見るも美しい完璧な料理です。

冷めぬよう急いで、けれども走らず、順番に患者へと配膳して下さい」


 団員たちはフローレンスにも負けぬ晴れやかな返事の後、皆嬉しそうにワゴンを押して患者のもとへと消えていく。


 そんな光景を見るにつけ、フローレンスの心は何物にも変えがたく休まっていった。






【紙巻タバコ】

 紙で巻かれたタバコがヨーロッパで流行するきっかけになったのも、クリミア戦争です。従軍していたフランス兵が戦場のトルコで作られた紙巻のタバコを喫し、中近東産の味の良い喫味に驚いたそうです。


 そのため国に帰った兵士たちはフランス産のタバコには目もくれなくなりトルコ産のタバコを求めたそうです。パイプに比べて手軽に喫することができたのも、人気となった要因の一つだそうです。


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