1話 くつろぎと憂い
スクタリ兵舎病院内を大竜巻のように荒らし尽くした伝染病の蔓延は、幾種もの疫病が多発的に流行するという恐怖の異常事態であった。
その魔手は患者のみならずトルコ人を初めとする看護従事者にも容赦なく伸ばされ、その脅威が弱まる頃には死亡者数が数百人にも及ぶ大惨事になっていた。
四十日間をかけて鎮静化したとはいえ、患者たちの病状は依然予断を許さない日々が続いていた。
二月の下旬を迎えた夜気はいつしか雪を踊らせ、スクタリの景色を白く色付けていく。
そのはらはらと落ちてくる綿氷をハンクは看護婦塔の一階で窓越しに見上げていた。
凍るような寒さの水場に立つ彼の手がくつくつと煮える甘い葛湯を丁寧にかき回しながら、優雅な造形のティーカップを近くに寄せる。
石窯の火から下ろされた小鍋から熱い葛湯をカップに注いだハンクは、それを揃いのソーサーに乗せ、白い湯気をたなびかせながら薄暗い階段へと向かっていく。
ハンクが葛湯を作るようになったのは、二月に入った頃だった。
もともと線の細かったフローレンスが明らかに痩せ始め、日中の仕事を終えて部屋に戻っても、気分の悪さから小一時間はハイバックチェアで横にならないと書類整理ができない状態になっていた。
ある夜この状況に気が付いたハンクは、叱られることも厭わずミルクと蜂蜜入りの特製葛湯を作り、無許可のそれを堂々と彼女の仕事部屋へ運び入れた。
そればかりか彼女が葛湯を飲み終えるまで、決して部屋から出ようともしなかったのである。
備品の消耗でしかないから止めるようにときつく注意したフローレンスだったが、ハンクは素知らぬ顔で扉の前に控え、葛湯が冷えるたびに階下で温め直しては熱い葛湯をテーブルへと戻し続けた。
朝までに十数回と繰り返されたこの行動にはさすがのフローレンスも根負けし、遂には疲れた諦め顔で熱い葛湯を口にしたのであった。
それから毎晩の日課となった葛湯の奉仕を手に、ハンクはフローレンスの部屋へと静かな足音を向かわせる。
古い木製のドアをノックすると中からはフローレンスのくつろいだ声が「どうぞ」と応え、ハンクも慣れた声をかけてから部屋へと入った。
扉を閉め終えたハンクの目には、今日も大量の書類を前にしてペンを走らせている彼女の姿が映っていた。
ハンクが静かに歩みを寄せ、フローレンスが視線を落としている無骨な机の端に普段と同じようにカップを置く。
彼女は書類と向き合ったまま流れるように文章を書き続け、しばらくしてようやくピリオドを打ち響かせた。
フローレンスは小さく息を吐き、ペンを置きながらハンクの顔を見上げる。
「ありがとう、頂くわ」
彼女は手にしたカップを口元に引き寄せ、飲む前にチクリとハンクをたしなめた。
「――サマンサ、
葛粉はもっと少なくと昨日言ったはずですよ」
その言葉に対し、ハンクもフローレンスと同じ口調でチクリと返す。
「ええ婦長。
でも今日は昼食を取られませんでしたよね?
だから葛粉は減らしませんでした。
よく『食事も看護の内です』って、私たちに仰っているじゃありませんか。
婦長だって、ちゃんと摂らなきゃだめなんですよ」
ハンクはそう言いながらフローレンス宜しく背筋を伸ばし、つんと吊り上げた眉と目で彼女を見やった。
やれやれと言いたげに小さく首を振り、さも観念しましたと言いたげな微笑みでカップを傾けるフローレンスに、ハンクはつい小さく笑いを漏らす。
するとフローレンスもつられて笑い出し、二人の小さな笑い声は暗い室内で花のようにほころんでいった。
◇
フローレンスが葛湯を飲み終えるまでの間、二人は気の向くまま他愛のない話をした。
大抵は院内で起こった楽しい話題が主であったが、その日の気分次第では看護や数学、果ては難解な哲学論議にまで発展することがあった。
会話を終えてふと訪れた静寂に、ハンクがそういえばと囁いた。
「ここを離れた第二陣……、
幾つかに分裂してしまったそうですね。
何日も船に揺られて前線へ向かった人もいれば、
挫折してイギリスに帰った人も多かったとか……。
ミス・スタンレーは数キロ先の病院でたった数人を率いているものの、
やることなすこと失敗ばかりで……、
遂には『スクタリで見ただけの看護を真似た、ちぐはぐ看護のレディ看護婦だ』と皮肉られたと聞きました」
フローレンスは葛湯のカップを持ったまま溜め息し、俯きがちに憂い声を漏らす。
「そう……。
あなたの耳にも入るほど、噂は広がってしまったのね。
……嘆かわしい事だわ、
こんな結果になって欲しくはなかったのだけれど……」
そう言ってしばし黙り込んだ後、フローレンスはぽつりぽつりと口を開いた。
「今のイギリス社会では高い教養を持った女性が、
それにふさわしく有益な役割に就く事ができない状態なのは知っているわね?
それは女性が男性より劣っているからではなく、
女性に求められるものが『家政を取り仕切れる事と、感情的である事』でしかないため。
この馬鹿げた慣例がどれだけイギリスの財産を殺してきた事か……。
ですから私はこのスクタリで有閑女性の有能さと、
それと同じく蔑まれてきた看護という重要な仕事に、
燦然と輝く功績を残さなければならないと決意しているのです。
選別した看護婦団の宗教が傾いていない事も、その成功への布石でした」
ハンクは彼女の隣に立ったまま、四ヶ月前なら食って掛かりそうな内容を黙諾して相槌をうつ。
数週間続いた親密なティータイムはいつの間にかハンクの思考を鍛え上げ、意欲的な先覚者の如く柔軟に成長させていた。
その有識と利発さは日を追うごとに冴え渡り、最近では二月に倒れた旧政府の問題点や新首相が打ち出した政策に対し、フローレンスと議論ができるまでに高まっていた。
「派遣を許可した元戦時大臣のハーバートさんが
『メアリー・スタンレーの熱烈な志望をむげにはできず、軽率な判断で第二陣を派遣させてしまった』
と詫び状を送って下さったわ。
私が派遣のために厳しく人材を選別した事を強く評価なさっていた彼は、
御自身の友人メアリーが敬虔なカトリック信者である事を、全く御存じなかったそうよ」
粛然さを失わない気さくさで話すフローレンスの口調は、ハンクの脳内に未だ踏み入ったことのないロンドンの社交界を想像させた。
その豪奢な空間で想像上のハンクは漆黒のシルクハットを被り、上等なモーニングと糊の効いたリンネルに絹のタイを締めている。
傍らで椅子に座りアフタヌーンティーを楽しむフローレンスも、上品な水色に深い宵色のフレアを咲かせた優雅なヴィクトリア朝ドレスを身にまとっていた。
洗練された会話が奏でる旋律に聞き惚れながら、ハンクは想像内のダンディな口調とは違う規律正しい看護婦の口調で話しかける。
「彼女があんな軍団を結成するとは思っていなかったんですね……」
気の毒そうに声を弱めたハンクが、フローレンスの傾けるカップの角度を一瞥し、この素晴らしい時間の終わりを一人静かに予感する。
「ええ、
知っていれば絶対派遣などしなかった、とも後悔なさっていたわ。
彼はスクタリに人手が足りない事を心配してくれていたのでしょうけれど、
やはり私は自分で選んだ人材を、
管理し得る人数しか受け入れる事はできないのですから」
悲しそうに溜め息を吐いたフローレンスは、カップに残った最後の一口をゆっくりと飲み干すと、それを作法良くソーサーへと戻す。
その音と共に現実へと引き戻されたハンクが、ソーサーに手を伸ばしながら机に広げられていた便箋に目をとめた。
「また、手紙を書いているのですか?」
びっしりと書き込まれた様子からそう訊ねたハンクに対し、便箋に目をやったフローレンスは眉頭を寄せて憂鬱そうに答える。
「いいえ、これは新政府から送られて来た手紙です。
――二月にイギリス内閣が倒れた事でハーバートさんが大臣を辞職した事、
そして新首相の要請により『衛生委員団』というものがスクタリを視察に来る、
という報せなのよ」
「衛生委員団……?」
ハンクがそのいかにも官僚的な名前に口角を下げ、失意を滲ませながら天を仰いだ。
既に数回やって来ていた政府の調査団は、まるで観光地でも巡るかのように院内を閲覧し、歩きながらペンを走らせては彼らの主観でしかない感想を綴り、実に仰々しいやり方で価値のない報告書したためていくのである。
フローレンスは小さな溜め息を吐きつつペンを持ち、ハンクの退室を促しながらも諦めきった言葉を漏らしていた。
「また面倒な事にならなければいいけど……」




