15話 鷲の強さに
病院に一歩入ったハンクが見たものは、悪夢のような混乱そのものであった。
腐臭に満ちた院内は、看護婦と医師が指示を叫ぶ声と、手伝いに駆け回る看護兵たちで溢れかえっていた。
地を這うような呻き声に混ざり、そこかしこからは床に滴る下痢や吐しゃ物の音が聞こえて来る。
時折回廊を引き裂いていく断末魔にあの光景を思い出したハンクは、漂ってくる血の匂いに立ち尽くし身震いをした。
看護に奔走する人の波をかきわけながら彼の目前を駆け抜けたシスター・エリザベスが、右へ左へと大きな体をさまよわせる。
そしてようやく見つけたフローレンスに駆け寄ると、息を切らせて声を上げた。
「あぁ婦長! どうかおいで下さい!
東棟の患者が――、……ずっとあなたの名を呼んでいるのです」
すぐさま顔を上げたフローレンスは血膿にまみれた包帯交換の手を止めて、さっと両手を拭いながら返答をする。
「解りました、すぐに行きましょう」
後任指示ののち、フローレンスがシスター・エリザベスに付いていこうと立ち上がったところで、玄関に立つハンクの姿が瞳に映った。
彼女は素早くハンクに走り寄り、ぼんやりとしている彼の両肩を強く掴んで、その心中を叱咤した。
「何をしているのです!
あなたは看護婦でしょう!
今ここで看護婦としてするべき事が何であるか、
それをも考えられぬ『少女のように頼りない』頭しか持ち合わせていないのであれば、
すぐさまイギリスに帰りなさい!」
彼女の鋭い鷲の視線は、ハンクの心を瞬時にして冴え渡らせた。
彼の見張った目が、悲しみに自惚れた自分自身の姿をはっきりと映し出す。
その悲しみは、ここにいる誰もが皆持っているはずなのだ。
それなのに一番そうなるべきではない自分が、悲しみの海で漂い続けている。
そう気付かされたハンクの口が、無意識のうちに言葉を綴っていた。
「……私でも、きちんと患者の力になれるのでしょうか?」
フローレンスは彼の祈りすら見切った力強さと精悍さで、英気の戻りつつあるハンクの顔にしっかりと言い聞かせる。
「力になる気があるのなら、気持ちに従って行動しなさい」
微塵の揺らぎもない鷲の目に、ハンクは思わず声を出した。
「でも気持ちだけじゃ看護はできないって!」
切実なアッシュグレーの瞳を見据え、フローレンスがはっきりと答える。
「気持ちだけではない知識が、あなたにはもうあるでしょう?」
彼女は念を押すようにハンクの肩を叩くと、待たせていたシスター・エリザベスのほうを向き、いつもと変わらぬ背筋で患者のもとへと走っていく。
ハンクはその後ろ姿を見送りながら、彼女が必ず臨終の際にある患者に付き添い、いつも笑顔で励ましていることを思い出していた。
フローレンスは不満や不安が支配するような時でもそれに負けず、手術をする全ての患者に婦長として立会い、患者が求めればずっとそばにいる。
まるで母の代わり、恋人の代わりとなって、丁寧に彼らの死を看取るのだ。
その数えきれないたくさんの死は、ハンクの負った悲しみとは比べ物にならないほど大きく重いのだろう。
しかし彼女はその重さに押し潰されることなく気丈なまでに奔走し、患者の為に寝る間も惜しんで病院の状況全てを書き起こしていた。
忙しい中でも決して手を抜かず、恐ろしい速さでこなされる事務ごとや物資の収集も、今生きている患者を思えばこそのものなのであった。
ハンクが窓の外に見える遠い墓地を見つめ、そこでこちらを見つめているように思えるリタの幻影に向かって、はつらつとした表情で呟いた。
「ごめんリタ、忘れるところだったよ。
看護婦にとっての戦場はここで、僕は看護婦だから戦わなきゃいけなかったんだ。
この戦争が終わるまで、僕は生きている兵士たちのために仕えなきゃ。
お祈りは『看護婦』が終わるまで、アンリさんに預けたからね」
僅かに残る憂いを笑顔で拭い去ったハンクの心に、すれっからしなリタの笑顔が浮かぶ。
本当の姉のようだったリタへの素直な愛情を、ハンクは包み隠さず言葉にした。
「だから、僕が死ぬ時はきっと、
絶対に迎えに来てくれよ?
大好きだ、リタ」
ハンクの言葉は喧騒に消え、その声は彼の鼓膜だけを揺らしていた。
意志強く清美な輝きを放つ彼の瞳が患者の呻き声に振り向き、フローレンスに似た凛然さの背筋で彼らのもとへと走っていく。
その肩には、アンリと同じ温かさを持ったフローレンスの温もりが残されていた。
【鷲】
フローレンスはよく「スクタリの天使」と賞賛されますが、彼女の性格が天使のように穏やかだったわけではないようです。フローレンスの意思強さや、隙のない論法などに対峙した人々は彼女のことを「白鳥が産んだ鷲」と言って恐れたそうです。




