1話 女の利点と、その難点
伯母の屋敷を出発したハンクは、ロンドンを目指して北北西に進路を取っていた。
山あいを縫うように伸びる街道は、時に見晴らしのよい平原や枯れ果てた林を両脇に並べ、ハンクの目を楽しませてくれる。
御婦人を乗せた神経質な馬車ならば一日はかかるであろう道のりも、馬上で勇ましく男乗りをすれば数時間程度で辿り着くはずだ。
しかしハンクは数分のキャンターののち、昨夜も無理をさせた馬の体力を気に掛けて、負担の少ないトロットへと切り替えていた。
ハンクが首に巻いていたストールを引っ張り、寒風で冷えきった鼻先を埋める。
そしてコートの内ポケットから取り出した真鍮の懐中時計で時刻を確認し、伯母から聞いていた蒸気船の出発時刻には充分間に合うだろうと安心した。
途中ハンクは人々で賑わう宿街に寄り、早めのティータイムを取ることに決めた。
店に入りメニューを眺めていると、ハンクのもとに少し年上くらいのウエイターが一人現れ、下心漂う『ティーセットのおごり』を申し出た。
ハンクは、むっとしながらもそれを受け、出て来た可愛らしいティーセットをレディらしくゆっくりと食べて見せる。
その間ずっとテーブルにはりついていたウエイターが他の客に呼ばれた瞬間、ハンクは報復とばかりにできたてのサンドイッチを三人前と店自慢のミートパイをワンホールに、並んだばかりのバラ・ブリスを丸々一本注文して、さっさと席を立ってしまった。
テイクアウト用の商品を包んだウエイトレスの少女が紙袋を手渡す際にウィンクをし
「あんたって、かわいい事を鼻に掛けないのね。これでアイツの今日の稼ぎはパァ。いい気味よ」
と言いながら化粧っ気のないそばかす顔で愛嬌のある笑顔を見せた。
そのからりとした反応に、ハンクはレディファーストの寛大さを感じ入る。
宿街を出てからは馬任せにのんびりと進み、馬の歩みが緩んだところで小休止をとった。
手綱の下ろされた馬が枯れ草を食む間、傍らに座るハンクは先程の戦利品を味わいながら、道沿いで秋色を湛えている木々たちを愛でた。
「さぁ、もうひと頑張りだ」
休みを終えて再び街道に戻ったハンクは、茶色い皮手袋をはめた手で懐中時計を開き、文字盤と相談しながら愛馬を進ませていく。
その周囲では幾台かの馬車が、煌びやかな車体を優雅に揺らしていた。
視界に入った馬車たちをきょろきょろと見比べ一番質のよいものを選んだハンクが、無駄のない手綱さばきで馬車へと近付き、御者台に座る男へと声をかけた。
「失礼。ロンドンまでは、あとどのくらいですか? ……しら?」
つい、いつも通りの口調になるのを修正し、ごまかしの笑顔を振りまくハンク。
その不自然さよりも、御者はか弱い少女が立派な単騎をそつなく乗りこなしている姿に驚いていた。
しかしそのおかげでロンドンまでの百数十キロの間、ハンクの女装が見抜かれることは一切なかったのである。
伯母に、低い身分の馬車は危険だから近付くなと固く止められていたこともあり、ハンクは道すがら貴族の馬車を探してはその付近を駆け繋いでいった。
◇
愛馬の蹄がロンドンの石畳を蹴ったのは、日没直後の夕闇迫る頃だった。
ガス灯が照らす大通りは夜であっても雑多とした人々の往来が続いている。
ハンクは何度か来たことのあるこの街の、胸を突く煙たい空気が好きではなかった。
その嫌いようといったら、ロンドンの街が見えた途端にストールで口元をきつく締めなおす程であった。
この街に林立した工場たちは、産業革命の名の下で絶え間なく黒煙を吐き出し、その煙をロンドンの空全体にさも誇らしく漂わせていた。
灰色に霞をおろすこの街は、それを疎む人々から『霧の都』と称され、産業革命の暗い象徴となっていた。
到着時間に遅れを感じていたハンクは愛馬の足を少し速め、人で混み合った霧の都を縫うように進んでいく。
ほどなくして伯母の知人が経営する宿に着いたハンクは、出迎えてくれた従業員に「リッチモンドの紹介で来た、と主人に伝えてください」と言付けをし、ここで別れなければならない愛馬の首をそっとなでた。
少しして宿から顔を出した店主は、少女に向かって親しみやすい笑顔で挨拶の声をかけて来る。
挨拶を返したハンクが馬から下り、伯母の書いてくれた手紙を宿屋の主人に手渡した。懐かしい友人からの手紙を読んだ店主は、手紙に書いてあった馬の預かりと定期船への乗船手配を快く承諾すると、馬の背にあった荷物を両手に下げ、馬を小屋で休ませるよう店の者に指示を飛ばす。
そしてこの友人の親族である可憐な少女がして来た長旅を気遣い、無料宿泊の提案を申し出る。
「お嬢様、長い道のりでお疲れじゃございませんか?
出立を明日一番にして、お泊り頂く事もできますよ?」
感じの良い笑顔でそう言ってくれた主人の言葉につい心が揺れたものの、今日中にイギリスから出ると決めていたハンクは、この申し出を丁寧に断り蒸気船の待つ港へすぐ案内して欲しいと告げた。
「ではカミーラさんのお願い通り、わたくしが道案内をいたしましょう。
さぁこちらです、お嬢様」
レディの疲れを心配してか、道案内をしながらも気さくに話しかけてくれる宿屋の主人。
ハンクはその心遣いを嬉しく思い、今日一番のレディ振りで応えて見せた。
◇
テムズ川に架かる、大理石のロンドン橋。
そのたもとに停泊した中型の定期船から大きな呼び声が聞こえて来る。
「御乗船の方は、お急ぎ下さーい! 間もなく出発いたしまーす!」
出港間近を知らせる鐘がけたたましく打ち鳴らされるなか、宿の主人は船のパーサーに荷物を預け「間違いなくレディの部屋に届けておくように」と指示をした。
そして彼にはチップを、ハンクの手には買いたての乗船券を手渡す。
実にレディらしい丁寧なお礼を伝えたハンクはフランス経由の定期船に乗り込み、二階建てのデッキから眼下の港を見下ろす。
たくさんの人々が手を振る中に混じり、宿の主人は道中の無事を祈るように手を振ってくれていた。
その姿が見えなくなり、デッキにいた乗客がまばらになった頃、ハンクはようやくデッキを離れ船内への扉を開いた。
宿の主人が手配してくれたハンクの部屋は、ジェントリのレディというハンクの身分に相応しいクラスの船室だった。
広さこそ手狭ではあるが、テーブルを挟んで向かい合う大きな座席が一対あり、壁には豪華な調度品や美しい花などが飾られている。
ドアの鍵を閉めたハンクは、届いていた旅行カバンの上に脱いだコートと帽子を乗せ、ゆうに二人は座れる座席に身を預けて深い溜め息を吐いた。
「……女って、意外に疲れるもんなんだなぁ」
女性用の高いヒールのせいで硬くなったふくらはぎを揉むハンクが、その疲れもあってか定期船の心地よい揺れに二つの瞼を閉じていった。
【バラ・ブリス】
イギリス、ウェールズ地方に実在するフルーツ・ケーキです。ドライフルーツたっぷりで、どっしり甘いケーキですよ。紅茶風味の物もあります。