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10話 堅忍、爆ぜる

 逸る気持ちを押さえながら看護婦の後を歩いていたハンクに、前を行く小柄な看護婦が振り返って素早い目配せをした。


その意味を理解しながらも戸惑いの表情を見せて来るハンクに、彼女は悲しげな笑顔でそっと呟く。


「あなたは指導を許されていないんだから、

……ううん、

指導なんて私たちにまかせてサマンサは、どうかリタを……。

これは皆とマーサ隊長からの命令よ」


 気丈に明るさを残した口調でそう言った彼女は、ハンクの胸に清拭道具を押し付けると、彼の体を反転させて小さな背中を軽く押した。


その勢いのままリタのベッドサイドへと小走りで駆け寄ったハンクが、まるで日焼けをしたような肌の色になっているリタを見つけて息を飲んだ。


彼女の窪みきった眼窩と痩せ細った頬は、ハンクの胸中に否定しきれない感情を呼び起こしていた。


「……サム……?」


 薄い瞼を細く開いたリタが、うわ言のように呟いた。


 ハンクは震えの湧き起こって来る手足に力を入れ、崩れ落ちてしまいそうな平常心を奮い立たせる。


そして普段と変わらぬ声色で答えた。


「リタ、来たよ。

今日はこの病室の患者を清拭する日なんだ、

私がきれいにしてあげるからね」


 乾燥して皺が寄ってしまったリタの手をハンクが優しくさすると、リタはほんの少し口角を上げた。


その口元に胃液らしきものが乾いているのを見たハンクは、困った表情でリタの髪をなでる。


「リタ……、

すっかり吐いてしまったんだね? 

清拭より、まずはスープを摂らなきゃ」


 一陣と二陣の看護婦が単発的な言い合いをする声にかき消されながら、リタは虚ろな声で呟いた。


「……飲めない。

……吐いちゃうし……」


 次の言葉を濁したリタの様子に、ハンクは足元のおまるが空だったことを思い出す。


毛布を掛けているので見えないが彼女からは甘い異臭が漂い、あの白い水溶便がベッドの中に漏らされているのは明らかだった。


「リタ、それでも食べないと――」


 ハンクが更に食事を勧めた時、リタは水溶便を垂れ流した。


毛布の中で音を立てて流れ出た排泄物に、リタは堪えきれない嗚咽をこぼす。


その切ない声が病室を裂き、リタは真っ赤な瞳でハンクに訴えた。


「力が……出ないの! 

すぐそこの、便器にも行けないのよ……! 

死んでく人たちと同じ……、私も死ぬんだわ。

あの人たちみたいに死ぬんだわ……!」


 止まらないリタの嗚咽が病室内を支配するなか、ハンクはもう何百人と聞いて来た患者の呻きを思い出し、心臓が張り裂けそうになりながらリタの体に抱き付いた。


何とか励ましたいという思いとは裏腹に、それを為すような言葉は喉の奥に詰まって出てこようとしない。


ハンクはかすれる声でリタの名前だけを何度も呼んだ。


「リタ……、リタ……」

 

 彼女は力なく枯れた声で訴え続ける。


「死にたくないよぉ……、

私の人生、何だったの……? 

貧乏で、ツイてなくて、男に金もらって抱かれ続けて……? 

そんなのやだ、やだよぉ……。

あたし……これでも、普通に結婚とか……したかったの……に……」


 リタの悲痛な泣き声に、看護婦たちは手を止めて彼女を振り返っていた。


苦く重苦しい空気が病室内を包むなか、読んでいた書類を患者のチェストに乗せたフローレンスがつかつかとリタのベッドに歩み寄る。


そしてハンクを乱暴に押しのけると、彼女はリタの肩を掴んで力尽くに引き起こした。


無理矢理引っ張られたリタは頭部をぐらつかせ、各段に細くなった首が折れそうにしなる。


「リタ・ヒン! 

食べられないのならば、すぐ座浴室へ向かいなさい! 

あなたは看護婦でしょう! 

看護婦ならば患者より早く死ぬ事など、絶対許されないはずです!」


 その場にいた全員が、轟き響くその声に身を凍らせた。


 初めて聞いたフローレンスの怒声は、まるで獅子の咆哮そのものだった。


あまりの迫力に圧倒され、数人のレディは恐怖に震えてさえいた。


 ぐったりしたままのリタを激しく急き立て、今にも彼女の腕を担いで座浴室へと引きずり出そうとするフローレンスを、ハンクが慌てて止めに入る。


「婦長! 止めてください!!」


 フローレンスはハンクを容赦なく突き飛ばしリタの毛布を剥ぎ取ると、ぬるぬると汚れたベッドシーツを指差してハンクを怒鳴りつけた。


「見なさい!! 

ベッドがこんなに汚れている! 

ここまでひどく汚れた場合はシーツを換えなさいと、あれほど言い聞かせたでしょう! 

劣悪な環境を改善できていないから、どんどん患者が悪化していくのです!!」


 フローレンスはいつになく感情的であった。


言葉使いこそ丁寧なものの、第二陣のせいで仕事が溜まり続けるという苛立ちは、もはや隠そうとしても隠しきれなかったのである。


 だが苛立っていたのは彼女だけではなかった。


怒りを浴びせられたハンクもフローレンスを睨みつけ、恐怖と怒り、不安と不満が嵐のように攪拌された感情を、フローレンスに向けて燃え上がらせる。


「ちゃんと世話してあげたくても! 

あの人たちのせいでそんな時間がないじゃないですか!! 

他の患者さんだってきれいにしてあげたいのに、

これじゃ患者がみんなかわいそうだっ!!」


 あの人たちと指された第二陣から飛び出したスタンレーが、心外とばかりに甲高い声を上げた。


「まぁぁ! 私たちのせい? 

言いがかりはお止め下さらないかしら。

私たちはミス・フローレンスの指示通り、予定通りしっかり仕事をこなしておりますわ! 

今私たちは謹厳に看護を学んでいる途中、

時間をなくしている原因はこの課程を構成したミス・フローレンスにあるのではなくて? 

私たちに非があるなど、思い違いも甚だしいですわ!!」

 

 事実、第二陣の看護婦は思ったよりもフローレンスの指示を良く聞き、看護を始めてから三日経った今では、炊事や洗濯、沐浴など、覚えた看護は熱心にこなしているように見えた。


しかしその言いぶりには、第一陣が我慢ならぬと不満げにざわめきたつ。


いかに熱心とはいえ第二陣がしていたことといえば、炊事ではできた料理を盛るだけ、洗濯では干すか取り込むかだけ、沐浴では患者の濡れた体を拭くだけだったからだ。


それは看護などというものからはずいぶん掛け離れた、お嬢様のままごと遊びでしかなかった。


 ハンクは鋭くスタンレーを睨み、少女とは思えぬ恐ろしい形相で一撃する。


「黙れっ! この身のほど知らずの高慢ちき!!」


 病室は、水を打ったように静かになった。





【視診】

 現代のように様々な検査薬などがない当時は、患者は医師による視診や触診で病気を判別していました。判別が難しい場合は匂いをかいだり、体の音を聞いたりして患者の病を探し当てていたのだそうです。今も昔も医師という人は、五感を研ぎ澄ませて仕事をする職業のようです。

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