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8話 病

 リタは看護兵たちの手により、医療従事者が搬送される特別室へと運ばれていった。


そこは病に犯された看護兵や医者、兵士の妻にトルコ人までもが分け隔てなく診療される一室であり、備品庫に一番近いその特別室は何かあればすぐに監査役の青年が駆けつけられる体制が組まれていた。


ハンクが午後の休憩時間を利用して特別室にそっと訪れ、七メートル四方の室内に並べられた十数床のベッドの中から、リタの姿を見つけだす。


ワゴンを停めたハンクが、特別室の一番手前にあるベッドで横になる彼女の背中に静かな声をかける。


「リタ、具合はどう? やっと来られたよ」


 気力なく振り向いたリタが、黄色おうしょくの濃くなった顔で力のない瞼をうっすらと開ける。


「サム……」


 ハンクはその顔を覗き込み、彼女の乱れた髪をなでた。


フローレンスに禁じられながらも絶対に止めず、薄くすることにのみ従っていたリタの鉛白粉はすっかり拭い去られている。


彼女の顔色の悪さは、そのせいだろうと思いたかった。


ハンクはワゴンに乗せた湯注しを手に取り琺瑯ほうろうの洗面器に注ぎ入れると、その中で清拭用のリネンを絞ってからリタの頬を汚す吐しゃ物の跡を拭う。


肌の張りが消えて眼窩の窪みが目立ち始めたリタの顔貌、それに覚えのあるハンクだったが、今だけはその示された結論を信じたくなかった。


「リタ、マットが硬いでしょ? 

毛布を一枚、体の下に敷くと楽だよ」


 彼女の体を抱き起こしながら、体の下に二つ折りの毛布を敷いたハンクは、ベッド脇から立ち昇る甘く生臭い臭いに否定の言葉を念じ続ける。


そっと毛布を掛けなおすと、リタは絞るような声で「ありがとう」と呟いた。


 特別室のベッドに横たわってから数時間しかたっていないというのに、リタの体は明らかに衰弱していた。


ハンクは何も考えないようにしながら、ワゴンの下段に用意しておいた温かい病人食を取り出す。


そして普段と変わらぬ笑顔を見せると、茶化すような声色で言った。


「やだなぁ、リタがそんなしおらしくちゃ調子が狂うよ。

こんなのただの下痢じゃない? 

すぐよくなって看護に戻ってね」


 少しの笑顔を見せたリタの口元に、ハンクが病人食を乗せたスプーンを寄せる。


「ほら、あったかいうちにどうぞ」


 リタはハンクの差し出す病人食を三口ほど口にした。


しかし四さじ目を前にした途端に低く唸りベッドから身を乗り出すと、枕元に置かれていた洗面器に向かって激しく嘔吐をした。


飲み込んだばかりの病人食以外にも、どこから出て来るのかと思うほどの水分がリタの食道を逆流する。


慌てて皿を戻したハンクが、震えぬよう懸命に堪えた両手で彼女の骨ばった背をさする。


そしてただひたすらに、ベッド脇のおまるに溜まった白い水溶便の存在を無視し続けていた。


  ◇


 その夜。


ハンクは自分のベッドの上に破れたリネンを大量に積み上げ、一本の蝋燭を傍らに延々と繕い物を続けていた。


隣で寝返りを打った修道女が蝋燭の明かりに気が付き、まだ制服を着たままのハンクに眠そうな声をかける。


「……サマンサちゃん、眠らないの?」


「あ、眩しかったですか? ごめんなさい、もう寝ます」


 ハンクがチェストの上に針を置き、蝋燭をふっと吹いて消す。


そして暗闇の中で制服を脱ぎ、隣の修道女が小さな声で問い掛けてきた「毛布は?」という言葉を、リネンの山に潜り込む衣擦れの音で聞き流した。


 しばらくして再び寝息しか聞こえなくなった室内で、ハンクは不安に見開かれた眼球をリタのいないベッドに向けていた。


(――どうかリタは、治りますように)


 幾人もの患者を看てきたハンクは、リタの症状を信じたくない一心で祈り、自分の考える結末がどうか間違っていますようにと願い続けていた。


  ◇


 次の日の早朝、スクタリは雷を伴うほどの強い雨に打たれ、鎮座する野戦病院を雨の軌道に霞ませていた。


雨粒が打ち付ける小さなガラス窓の向こうでは、キッチン部屋に集められた黒衣の集団が驚愕の声と共にざわついていた。


普段は慎ましやかに行われている看護方針会合の場が、外の雨音も聞こえなくなるほどに騒がしくなったのは初めてのことだった。


 つんと顎を上げて彼女たちを見回したスタンレーが、この騒然さを生んだ発言をもう一度フローレンスへと突きつける。


「そうでしょう? ミス・フローレンス。

私たちは貴女の求める看護婦になる為に、

いろんな事を訊ね、指導されなくてはならないわ。

そうなったら貴女一人で数十人の生徒を扱う事は無理よ。

だって貴女ができると仰っても、

私たちには昨日の速さで教わり続ける事なんて無理ですもの。

……だから私たちは、第一陣の皆さんから、一対一で時間をかけて教わりたいのよ」


 彼女の言葉を受けた第一陣の看護婦団員からは、驚きと共に嫌悪の声が沸き上がっていた。


己の無力さを完全に度外視したうえに第一陣の画一された看護を奪おうとするこの提言には、寛大な心を持つ修道女たちですら眉をひそませた。


 黒い制服の並ぶ最後列で一人鋭い視線を据えたハンクは、第二陣の先頭で高慢な視線を放つスタンレーに対して小さな違和感を覚えていた。


彼女が看護に対して底の浅い短絡的な展望を持っていることは明らかであったが、看護を習得しようという意欲の源が兵士への布教活動とは別のところにあるのではと思えたからである。


しかしそれを探究する気持ちは、身の程知らずのスタンレーが放ったお嬢様発言と、昨日から溜め込まれた不満の渦にかき消されていた。


「……解りました。

けれども私たちが行っている看護の中には、

レディの皆様に適切ではない作業も含まれているのです。

それらを今日から突然看ろというのはあまりに乱暴な話ですから、

貴女方には負担の少ない作業から始めて貰いたいのです。

それらを学ぶ為に必要な指導者は貴女方二人に対して一人とし、

二十五人前後のチームを三つ作る事としましょう」


 冷静に放たれたフローレンスの返答に、ざわついていた第一陣は耳を疑い言葉を飲んだ。


しんと静まり返ったキッチン部屋には、激しい雨の音と鍋の沸く音だけが響いている。


その静寂を、満足気なスタンレーの高い声が突き破った。


「では、そういたしましょう! 

チームの構成はミス・フローレンスに一任いたしますわ。

朝食が終わる頃までに連絡下さいませ。

それでは宜しく」


 そう言うとスタンレーは華やかな笑顔を残し、ペチコートで膨れ上がったドレスを引きずり看護婦塔へと去っていった。


その相変わらずな盛装を静かに見送ったフローレンスは、迫り来る嵐の予感に心を鎮めていた。






【琺瑯】

 金属にガラスを焼き付けたもので、医療用具から鍋や看板まで多岐にわたって用いられました。現在有名なものは、調理器具のル・クルーゼでしょうか。 古い琺瑯鍋はとても薄い作りで、焦げる事もよくありました。金属のように錆びず、ガラスのように割れないという利点は多くの国で流行を呼んだそうです。

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