7話 不自由の中で
中に入るとそこは凄い熱気で、咽るような湿度に顔をしかめたハンクが、すぐさま小屋の隅にある長い棒を手に取り天窓を小突き開ける。
室内に流れ込んだ冷気の心地よさに歓声が上がり、汗だくになっていたシスター・エリザベスが二人に向かって声をかけた。
「あぁ、サマンサにリタ、こっちよ。
すすぎを代わって欲しいの。
私もうだめ、外に行って干して来るわ」
一際体の丸いシスター・エリザベスはボイラーの出す熱にあてられ、すっかりのぼせきった巨体をふらふらと外に向かわせる。
洗いたてのリネン類を抱えたトルコ人の女性が数人彼女の後を追い掛け、外からは濡れた生地を叩き伸ばす音が聞こえ始めた。
その音をさえぎるほどの大きな声が、小屋の奥から聞こえて来る。
その声の主は鉤鼻の修道女、シスター・バーサであった。
「まったく、どういう事なのかしら!
私たちに第二陣のサポートをさせるなんて!
どちらかと言えば、あちらが私たちのサポートに回るべきではないの!?」
細い目を怒りで吊り上げたシスター・バーサは、まくり上げた袖すら濡れてしまいそうなほど乱暴にすすぎ作業をこなしていた。
弾け飛ぶしぶきに眉をひそめていた修道女も、洗濯の手を止め胸で十字を切って言う。
「こうしている間にも患者の方は苦しんでいるというのに。
あぁ、早く私は包帯の交換に行きたい……」
看護婦たちの不満の声を聞きながら、ハンクとリタは腕をまくってシスター・エリザベスが抜けた場所にしゃがみ込んだ。
二人が大きな桶でざぶざぶと音を立てリネン生地から石鹸を落とし始めると、リタの隣にいた兵士の妻が心配そうな顔をして呟き出す。
「洗濯なんか私たちに任せて、
看護婦の皆さんには主人の具合を看にいって欲しいのだけどねぇ……」
彼女の呟きに思案の顔を上げたハンクは、彼女との間でもくもくとリネンを絞り作業を続けるリタの素っ気なさに驚きながらも、勤めて明るい笑顔で言った。
「大丈夫だよ!
洗濯なんか早く終らせて、私がちゃんと看て来てあげるから!」
「まぁ、サマンサちゃんたらありがとう。
嬉しい事言ってくれて」
手では足りないと靴を脱ぎ桶の中央で洗濯物を踏みしめるハンクに、兵士の妻たちも笑顔を返すと一層すすぎに精を出した。
隣の桶ですすぎ湯を交換していた若い妻たちが溜め息混じりに囁く。
「だけど少し心配ね。
最近、前よりも亡くなる人が多い気がするのよ」
「昨日だって何人の奥さんが呼び出されたか」
「とうとう埋葬場所が足りなくなったって聞いたわ。
婦長さんがオスマンから新しい墓地を貰ったんだって」
ハンクは今朝も運び出されていった死体の山を思い出しながら、ただ黙ってぬるま湯に浸かったリネン生地を踏み続けた。
それは単なる井戸端の噂ではなく、悲惨ともいえる事実だったからである。
スクタリ兵舎病院へ運ばれて来る者は栄養失調や凍傷という軽症者が主であるにも関わらず、なぜか大多数が疫病に罹って死んでしまうのだった。
その数の多さは恐ろしいほどで、ハンクの予想では入院患者の半分近くにもなろうとしているようだった。
暗い雰囲気が漂うその場に、突然奥から冷やかしめいた歓声が上がる。
ハンクが小屋の奥を見ると、洗いを担当していた兵士の妻たちが、泡立った桶の中から見せびらかすように花柄のドレスを引きずり出していた。
中年の妻たちが鼻に皺を寄せて声を上げる。
「――おやおや、これってあのお嬢様方のドレスじゃないのかい?」
「ああ嫌だ、いつの間に自分の洗濯物なんか出したっていうの?」
「厚かましいにもほどがあるわ。捨てちゃいなさいよ」
「なにお待ちよ、あたしが洗ってやるわ。
力ずくで洗ってぼろぼろにして返すんだ。
そしたらどんな顔するかしらねぇ?」
看護婦たちはやめなさいよと言いながらもくすくすと笑った。
ハンクは彼女たちの悪ふざけに困り顔を見せながら、不思議と悪事に参戦しなかったリタを見やる。
するとリタはどうしたことか、桶のふちに手をつきうなだれていた。
「どうしたの、リタ。
休まないで早く洗って終らせようよ」
顔を近づけたハンクがリタの肩を揺らすと、彼女は気だるそうに顔を上げて言葉を返した。
「解ってるわよ……」
そう言って桶の中へと伸ばされた彼女の手が、洗濯物を掴む前に引き戻り口元を押さえる。
素早く身をよじったリタが桶に背を向けた瞬間、彼女は嗚咽と共に吐しゃ物を撒き散らしていた。
「――リタ!」
「ちょっと、あなた大丈夫!?」
ハンクの声に小屋中が騒然となる。
リタの隣にいた兵士の妻が彼女の背中をさすると、リタは激しい嘔吐を繰り返して床に倒れこんだ。
桶から飛び出したハンクが慌てて彼女を抱き起こし、大丈夫かと叫び訊く。
リタは力ない体で朦朧とする意識と戦いながら、呻く様な声を上げた。
「……ごめん。
何だか昨日の夜から……、
具合が……悪くて」
「どうして早く言わなかったんだよリタ!
きっと昨日のがまだ残ってたんだ、
いま塩湯を持って来てあげるから、全部出しなよ!」
腹部を押さえるリタの手に、ハンクは言い知れぬ悪寒を走らせる。
彼はその明確なまでの衝動を否定するように、裸足のまま洗濯小屋を駆け出した。
冷たい大地を蹴って病院内に駆け込んだハンクが、フローレンスの名を大声で叫ぶ。
その声は、悲痛なまでに響き渡っていた。
「――婦長! リタが! リタが大変です! 婦長!」
【フローレンスの仕事】
スクタリ野戦病院で膨大な業務をこなしていたフローレンスは、大半の仕事を人任せにせず自分の手で行いました。
「私の行うべき仕事が看護だけであったのなら、これほど楽な仕事はありません」
彼女がそう言ったほど、その業務は多岐にわたりました。看護に必要な品物ばかりか、生活用品や雑貨の類までもが彼女を通して送られてくるのです。
そして遂には、おびただしい遺体を埋葬する場所がなくなった事態の対処として、フローレンスはトルコ王に願い出て、トルコ軍の墓地を提供してもらうというような驚くべき交渉も行っていました。
「今や看護は、払に求められている仕事の中で、ほんの一部を占めるにすぎません」
彼女は己の忙しさに悩まされながらも、怠ることなく業務をこなしたそうです。




