6話 養成への決意
次の日の早朝、東の空が薄赤く燃え始めた頃。
フローレンスが主催して毎日行われる全団員参加の看護方針会合が、ころころと湯の鳴くキッチン部屋で行われていた。
もうすっかり看護兵の手から離れクラークの本拠となっている大きなキッチンには、今朝届いたばかりの山羊のミルクや、泥付きで積み上げられているジャガイモに人参、連なってぶら下がるソーセージなど、実においしそうな食材が並んでいる。
看護婦塔の小さな水場で慎ましやかに行っていた病人食作りは、今や患者のみならず医療従事者全員分の食事をも引き受けるようになっていた。
喜びに頬を上気させ鍋から鍋へと飛び回るクラークが、手伝いに雇われているトルコ娘たちにてきぱきと指示を出す。
「皮をむいたジャガイモは厚切りにしてお肉の上に。
あ、誰かそこのお鍋を混ぜて頂戴。
あなたはこのパイをオーブンに入れてね。
今日から患者さんが多くなるから、皆頑張りましょう!」
数人のトルコ娘たちは快活な口調で返事をし、一層素早く働いていた。
今日キッチン部屋がいつにも増して忙しい理由は、フローレンスが私財を投入して修繕させた病院の一角が完成したことに他ならない。
この修繕により超過密状態になっていた廊下の患者たちはトルコ人人夫の手によって移動させられ、それ以外にも数百人の患者を新たに受け入れることができるようになっていた。
だがハンクは昨日の状況を思い出し、本当に必要なものほど現状に不足しているという切なる思いを胸に満たす。
通常の看護連絡が終わり、分厚い書類を閉じたフローレンスが、変わらぬ口調でさらりと発言した。
「今日から、第二陣の看護婦団員は皆、私と一緒に行動し、
私の教える通りの仕事をなさって頂きます。
スタンレー女子修道院長、
あなたもこの規則に従い、誰一人として勝手な行動はしない事。
もし勝手を行った場合は即謹慎にいたしますので、どうぞ宜しく」
この突然な訓令に眠そうだった目を大きく開いたスタンレーは、雌鳥のような甲高さで叫びだす。
「まぁ何てこと、ミス・フローレンスは私たちの行っている『看護』の時間を取り上げると仰るのね?!
患者は健全なる精神を取り戻さなければ、その肉体に健全さが宿らないというのに!」
ざわめく第二陣を背にしたスタンレーは、大袈裟な身振りで聖書の引用をして見せた。
だがフローレンスは冷徹な眉を吊り上げて、はっきりと低い声を響かせる。
「私の行っている看護は、
貴女方の行っている聖書の理念を第一には掲げておりません。
私が看護と表現して行っているものは、
患者を細心に観察し適切な物資を提供する事と、
それにより患者の生命力の消耗を最小に抑え人間の持つ回復力を最大限に増進させる事なのです。
神への贖罪や奇跡への祈りを促すのは、その後の話です」
フローレンスのぴんと張った背筋の裏には、過去に調査していたフランスやアイルランドのカトリック系修道女会の病院が信念としている
「弱い人や貧しい人の苦しみを分かち合い、隣人愛の精神をもって奉仕する」
という心得が第二陣を威圧するようにそびえたっていた。
その雰囲気を鋭敏に感じ取ったスタンレーが、緊張した表情でゆっくりとあごを引く。
さすがの彼女であっても、ここで下手に反論すればフローレンスは聖書の『善きサマリア人』を引き合いに出して論破してくることは容易に想像ができた。
熱く推薦してくれたマニング氏に報いる為にも改宗の機会を逃したくないスタンレーは、緊張で上ずった声を投げ掛ける。
「……嫌ですわフローレンスさん、
何て怖いお顔をなさるの?」
汗を滲ませて御機嫌うかがいを示してきたスタンレーに対し、フローレンスは愛想の欠片もない口調で言葉を続けた。
「これは新たな規則であり、婦長としての指示です。
私の指示には必ず従うと、皆さん初めに約束して下さったはず。
この病院の看護権限は私にあります。
私に従えない看護婦など要りません。
さぁこのスクタリ兵舎病院で看護をして下さる気があるのなら、
英国陸軍病院の女性看護要員として、
まず私の教える看護をしっかりと覚える事から始めて下さい」
フローレンスはそう言い切ってから看護婦たちを見回し、反対する者がいないことを確かめると解散の言葉と共に会合を終了させた。
そして早速第二陣を一つの病室に集め、まずは汚れない仕事である食事の介助から指導をし始めた。
五十人近くの『見習い看護婦』は不服そうな素振りを見せたものの、いざ作業を始めてみると律した態度で食事を与えていく。
想像よりも順調だった滑り出しに、フローレンスはほっと胸をなで下ろしていた。
だがその一方で、第一陣は第二陣の仕事をお膳立てるために先回りや後回しを強いられ、せっかく画一されていた効率的な作業進行が根底から覆されることとなっていた。
先も『見習い看護婦』が食事の介護をする為に第一陣の看護婦たちは総出となって患者のおまるを取替え、汚れているシーツや病人服を交換し、食事の配膳までもを準備してやらなければならなかったのである。
息を切らせてリネン類の交換を終えたハンクとリタが、朝に指示された看護方針通りに洗濯小屋へとやって来ると、小屋の周りには汚れたリネンの山々が幾重にも連なっていた。
本来洗濯は兵士の妻やトルコ人の女性たちに一任しているのだが、なるほど今日ばかりは人手が不足していると理解できる。
二人は足早に洗濯小屋へと駆け込んでいった。
【イギリスの料理】
イギリスに旨い物なし。といわれてしまうほど、イギリスの料理は美味しくないそうです。まさかそんな訳はないだろうと思って調べてみると、驚くべき情報が飛び込んできました。
『基本的に素材の味付けは、塩のみ』
うわぁ、これは予想の斜め上行く乱暴さだ。よくイギリス国民は作り手に向かって怒り出さないな。と思っていたら、
『食事の机には、塩コショウにビネガーが置かれているため、 彼らはそれを駆使して届いた料理を自分好みの味に完成させる』
…完成度低っ! その調味料でできることはかなり幅狭いが、イギリス人はそれを受けいれているそうです。




