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5話 貴族の、辟易する当然

 髪と体を洗い終えたリタを浴室に残し、汚物をたっぷりと吸ってしまったリタの制服をバケツに入れたハンクが洗濯小屋にやって来ると、中では数人の『第二陣』が賑やかな話し声をひらめかせながらドレスの着替えを行っていた。


その女性らしい光景にぎょっとしたハンクだったが、すぐさまそのレディたちが先程リタに汚物をかぶせた団体であることに気が付いた。


見るとドレスには点々と汚物の飛沫が散っている。


リタに比べて随分と軽く済んだ彼女たちの被害にちょっとした不満を感じつつも、ハンクは実に不快そうな彼女たちの様子を自業自得と言いたげな視線で見渡した。


しかしその視線は、レディの着替えを手伝う貧しげな下級層看護婦を見た瞬間、怒りをはらんだものとなった。


貴族の娘が着替えを手伝って貰うことなど当然の光景だったが、看護婦としてスクタリ兵舎病院にやって来たにも関わらず、あくまでも貴族ぶった生活を崩そうとしない彼女たちに、ハンクは嫌悪のこもった叱咤を突きつけた。


「着替えくらい一人でやったらどうなんですか! 

あなたたちが自分の手だけで着替えれば、

彼女たちの手があいて看護ができるでしょう!?」


 だがハンクの言葉にお嬢様は悪びれもなく言った。


「あら、この人たちは私たちの身の回りを世話させるために連れて来たのよ? 

手があいては、連れて来た意味がないわ」


 高飛車な身振りで頷き合うお嬢様たちを見て、ハンクは強烈な怪訝顔を見せる。


何とお嬢様たちは看護をする気がないどころか、町の病院で看護経験がある職業看護婦たちを、当然のように召使として私用していたのである。


しかも看護婦たちですらレディの背後から敵意の視線を投げ掛け、少女に対して


「余計な事を言うな」


と黙示していた。


ハンクはその様子から全てを理解し、予想外の現実に顔を歪めて奥歯をかんだ。


ハンクの声を聞きつけて小屋の奥から現れた兵士の妻が、彼の持ったバケツを見るなり驚きの声を上げる。


「大変、制服がこんな事に! 

これは完全に煮沸洗濯ね、預かるわ」


 バケツを受け取った兵士の妻は素早く洗濯樽に戻り、汚物そのもののようになった制服を引きずり出すと、周囲の女性たちと無駄のない連携で洗濯を開始した。


作業に没頭する女性たちは、第二陣のことなどまったくあてにしていない様子である。


 彼女たちの賢明な判断と、第二陣内で至当となっている醜い利害関係を見て取ったハンクは、口から出そうになる辛辣な言葉を飲み込み、場違いすぎるレディたちを強く睨みつけてから洗濯小屋を後にした。


怒りを押し殺す黒衣の背中が遠ざかるなか、一人のレディが気取った口調でリタのことを詫びる声を上げた。


だがハンクはその声に振り向きもせず、前だけを見据えて病院へと戻っていった。


  ◇


 その日の夜。


蝋燭の炎に照らしだされたフローレンスは、自室の大きな机に向かって深い溜め息を吐いていた。


「どうしてこんな事になるのかしら……」


 今日は一日中、どこかで必ず問題が起きていた。


『第二陣』が起こしたその問題は、全て『第一陣』が収束させ復旧しなければならず、足手まといなほど要らぬ仕事を増やしてくれた彼女たちに振り回されたフローレンスは、ようやく後始末を終えた疲労感に首を振る。


「……婦長、今夜はもう休んだらどうですか」


 ハンクは作ってきた葛湯をフローレンスの目の前に置き、やつれきっても尚書類にペンを走らせようとする彼女を労った。


ハンクの心情を察したフローレンスが顔を上げ、揺らめく蝋燭の炎に憔悴の表情を映す。


そして独り言のような切なさが、ハンクに向かってこぼされた。


「……第二陣を引率して来たメアリー・スタンレー女子修道院長は、

私が看護婦団の看護婦を選別する時、

熱心に手伝ってくれた友人の一人なのです。

……その人がなぜ、こんな行動に出たのか……」


 ハンクは彼女のゆらゆらと陰の動く横顔を見つめた。


机上に広げられた看護資料に見るともなく視線を落としたフローレンスが、さらに独白めいた呟きをこぼす。


「看護婦の選別には、確固たる基準を設けたはずでした。

修道女の場合は宗派を偏らせてはいけない、

看護婦の場合は身分が低すぎてはいけない、

レディの場合は患者を患者として扱えなければいけない。

看護に従ずる者として必要な体力と適正な年齢。

汚物、吐しゃ物、血膿に虫類、これらに触れる覚悟がある事。

看護婦として働きに誇りを持てる事。

そして何より、私の指示に従える事。

……なのに、

なぜメアリーは基準に反する人材ばかりを連れて、

ここまでやって来たのでしょう……」


 フローレンスの囁きは、決して叫ぶわけではないがそれと同じくらいの強さを持ってハンクの耳に届いていた。


そんな彼女の口調は、勝手に行われた第二陣の選考に大きな不備があったことを痛いほどに感じさせた。


「婦長……」


 確かに第二陣の看護婦は、看護の仕事を何一つ満足に行えなかった。


一切の汚れ仕事を避け、凄惨な手術現場からも目をそむけ、挙句用意された部屋や食事の粗末さに文句を言うお嬢様。


そのお嬢様の後に付いて回り、患者には色目を使い、洗濯したと思えばお嬢様のものばかりという下級層看護婦たち。


患者へと近寄っては、手を握り聖書を謳い、自分の宗派へ改宗を勧め続ける修道女の群れ。


たった一日でも、その態度は第二陣の目的全てを物語っていた。


 フローレンスがもう何度目であろうかという大きな溜め息を吐く。


「……私はリタを見ていて、

下級層の看護婦に対する気持ちを改めようと思い始めていたのです……。

でもやはり、彼女のような存在は稀有だと痛感させられました。

それに、熱意だけを振りかざしても私の理想とする看護には到底近付かないという事も」


 そう呟くとフローレンスは祈るように両手を組み、そこへ眉間を預けて肩を落とした。


「熱意……」


とフローレンスの言葉を復唱したハンクが、昼間に起きた汚物騒動の場面を思い出す。


病室から出ていった蝶の悲鳴に駆けつけたスタンレーは、惨状に取り残されたリタには目もくれず、第二陣だけが被害者であるという態度で開口一番こう言ったのである。


「――私たちは、哀れにも戦地で傷付いた者たちに神の御加護と安らぎを与え、

彼らの心を助け、救済する事を使命としています! 

あなた方だってそうでしょう? 

ねぇ、ミス・フローレンス! 

彼らを助けたいのでしょう!?――」

                

 そう熱意に満ちた言葉を放つスタンレーに対して眉をしかめたフローレンスが、ただ黙ってこの妄信的で愚かしい存在を見つめ返していた。


この様子をすぐそばで見ていたハンクも、フローレンスと同じ心境で熱意だけをふりまくスタンレーを苦々しく眺めていた。


魂の救済を主とした死に抗わぬ看護と、生命と肉体を回復させる純粋な看護とには、天と地ほどの違いがある。


はたしてこの事実を知る者はどれほどいるのだろう、恐らくは自分の父母でさえ知らないはずだとハンクは思った。


今日院内を荒らし回ったスタンレーも、貴族の典型らしく『看護婦』を履き違えているのだから。


奉仕活動に熱心な貴族というものは皆おしなべて信心深いものだが、看護に関して無知がゆえ、皮肉にもその熱意だけが先行しがちであった。


 リタに起きた惨劇を思い出しながら、ハンクが問う。


「追い返したいと、思わないのですか?」


「……いいえ。

あれほど敬虔で熱心なカトリック信者を追い返してごらんなさい、

本国を巻き込んだ大騒動になるわ」


 あの時と同じように今も眉をしかめている彼女からは、否定とも肯定とも取れる返事が呟かれた。


強い威厳と高い格式を有する鉄の女性が見せた僅かな思案、これにほだされたハンクは何だか自分が頼られているような気になって、少しの気安さからふと一つの案を呈する。


「それじゃあ、私たちにしてくれたように、

第二陣にも看護のやり方を教えていくのが建設的でしょうか」


 フローレンスはそれもまた大きな面倒だというふうに、今夜最大の溜め息を吐いて返答した。


「……ええ、そうね。やってみましょう」


ハンクは意外にも受け入れられた提案に驚きつつ、自分と同じジェントリでありながら看護の現実を知り尽くしたフローレンスを、強い尊敬の念を持って穏やかに見つめる。


(婦長の持つ正しい知識が、看護の現場には必要なんだ。

どうして俺は男だとか女だとか、そんな小さいことを騒いでいたんだろう……)


 便箋を取り出したフローレンスに就寝の挨拶をしたハンクは


「私にできることがあれば、何でも言ってください」


とだけ告げて、闇に繋がる階段を降りていった。


だが時を同じくして、黒海を越えた先にあるクリミア半島では、スクタリ兵舎病院へと送られた傷病兵がほとんど戻って来ないことが怪しまれ、その事実がイギリス本国へと囁かれ始めていた。






【シャツのボタン】

 やんごとなき身分のお方はどこの国でも召使いを連れています。そしてそのほとんどが、着替えをする時にその召使いにお手伝いをさせるものです。長い歴史の中、最後までそれを必要としていたのは優雅という名の怠慢を強要されていた上流階級の女性でした。そのため彼女たちの服は、前に立った召使いがとめやすいようにシャツのあわせとボタンの位置が通常とは逆になっているのだそうです。


 本来は女性でも男性と同じ通常あわせのボタンシャツを着るのが当然なのですが、貴族への憧れや、高級品はこうでなくっちゃというイメージが大衆女性を刺激し、逆あわせのボタンシャツが流行して定着してしまったようです。


 というわけで、決して殿方が脱がせやすいよう、そうなっているのではありませんのであしからず^^。


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