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6話 いざ、出発

 次の日の朝。


寝ぼけ眼のハンクの前には、きちんと旅支度された二つの旅行カバンが用意されていた。


何と伯母はたった一晩のうちに、必要なものを全て用意したのである。


そして伯母はハンクに朝食をとらせると、秋らしい枯穂色のよそ行きを鮮やかな手際で甥の体にまとわせた。


地模様の花柄が艶を放つ美しいドレスには、鮮やかなオレンジ色のレースが上品にあしらわれていた。


  ◇


 二つの大きな旅行カバンを黒馬の背に乗せ、鞍にまたがってコーラルピンクのコートを翻したハンクは、伯母の立つ玄関前に視線を走らせた。


肌寒さに肩を上げる伯母は、白い吐息に包まれて手を振っている。


ハンクは枯穂色のブルトン帽が乗った頭をツンと上に構え、一端のレディを気取って別れの挨拶を告げた。


「ではごきげんよう、ミセス・リッチモンド」


 それを受け、伯母が挑発的に眉を上げる。


明らかに彼女の目は「どこまでやれるのかしら?」と意地悪そうに問い掛けていた。


ハンクは吠える犬のように顔をしかめてからぷいと頭を前に戻すと、編み上げブーツの足で馬の腹をポンと蹴った。


 緩やかに下る枯れ色の一本道に、のどかな蹄の音が響いていく。


 しばらく下って振り向いたハンクの目には、朝日で眩しく包まれた小高い丘とそこに建つ伯母の屋敷が見えた。


もはやドールハウスのように小さくなった屋敷の前で、小指の爪ほどの伯母が、まだ変わらずに手を振っている。


ハンクは片手を大きく振ってそれに応えてから、スクタリへの道順がペンでなぞられている地図に視線を落とした。


進むべき道は朝日の方向に伸びている。


これを辿りながら北上すればロンドンへ、そこから港を出航してフランスへ、フランスからは国内を列車で縦断して南端のマルセイユへ、そして再び船に乗り地中海からエーゲ海を抜ければスクタリへと辿り着くはずだ。


自分の立つべき戦地スクタリに思いを馳せたハンクが、騎士道にのっとった戦士の戦いぶりを思い浮かべて目を輝かせる。


微笑を湛えたハンクの口から、希望に満ちた楽しげな声が発せられた。


「よーし、いいか看護婦たち。

戦場は男のものなんだ。

看護婦より看護夫のほうが絶対に有能だってこと、俺が行って証明してやるっ!」


 よそ行き姿の少女を乗せた黒馬が、リズミカルなキャンターで地面を蹴る。


 キンと冷えた冬の朝を進んでいく甥の姿を、カミーラ伯母は見えなくなるまで見送っていた。


  ◇


 その夜。


姉の家にハンクを連れ戻しに現れたオーベルト郷紳は、夕闇迫る庭先で唖然と立ち尽くしていた。


「ええ?! あのハンクが工場に住み込んで社会見学?! 

もしかしてその工場……、イタリアにいるデヴィッドの工場ですか!?」


 その言葉を背中で受け止めたカミーラが、丸い背中をさらに丸めて庭に咲くローズマリーの枝をハサミで切る。


「そうよ? 私の自慢の長男が監督する繊維工場にね。

ハンクのような聞かん坊は、現実の厳しさを体験すべきなの。

……それもこれも、あなたたち夫婦がハンクを甘やかし過ぎるからいけないのだけれど」


 しれっと返したカミーラがくるりと振り向き、手に持ったローズマリーの束をブーケの形に整えながら歩き出す。


大きなガラス戸を抜けてラウンジへと入ったカミーラは、メイドに用意させた陶器の花瓶に切りたてのローズマリーを手際良く生けた。


 冷え込む庭に残されたオーベルトが夜空を見上げ、満天の星を見つめながら諦めたように溜め息する。


「まだ十二歳の子供が、遠く親もとをはなれて工場住まいとは……。

……まぁ、仕官されるよりはましと言うものか……。

ドルスが無事だと解って安堵したばかりだ……。

もう、こんな由々しき事態の戦争など、早く終わって欲しいものだ」


 そう言って首を振ったオーベルトはカミーラのいるラウンジへと移動し、掃き出し窓のガラス戸を自ら閉めた。


そして室内に目を移し、サイドテーブルで月光に照らされている新聞の印字を見つめる。


大きく記された『戦争』の見出し文字に、オーベルトは忌々しさを帯びた失意で両眉をひそめ一人呟いた。


「我々国民は……『産業革命で世界一発展したイギリス国家』に、疑う事なく愛息を預けたのだ、それなのに……。

戦況を知らせる新聞からは稚拙で無計画な軍隊の実情しか伝わって来ない……。

我々の信頼がこんな形で崩されようとは、一体誰が想像できただろうか」


 当時のイギリス軍はその大多数を志願兵で構成していた。


もちろん今回の戦争もその例外ではなく、必要とされた大量の兵士たちは皆自から、あるいは家族からの申し出で集まっていた。


それはイギリス国民が皆、世界最強と謳われた自国の称号を信頼しきっていたからに他ならなかった。


 だからこそ、従軍記者ウィリアム・H・ラッセルが綴った凄惨な戦況記事は、オーベルトのような家族たちを悲愴と怒りで満ちさせ、イギリス中を深い後悔の海に突き落としたのであった。


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