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命と戦った女(ひと) フローレンス・ナイチンゲール  作者: ぐろわ姉妹
第6章 看護とは無駄なものなのか
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14話 少年看護婦の誕生

 ハンクとリタがフローレンスに教えを請うた日の午後。


 疲弊した医師たちの強い要望により、一枚の文書が看護婦塔へと通達された。


その内容は


『患者に対する看護において、

今後は医師の許可ではなく、

看護要員の総監督であるフローレンス・ナイチンゲールの許可のもと、

看護婦は昼夜の作業を行うものとする。

また、医者が要請した場合のみ、手術の助手となる事を認める』


という内容のものであった。


ようやく思い通りの看護ができるようになった団員たちは、昼食中の看護婦塔で歓喜した。


 そして午後の看護から彼女たち三十八人はめまぐるしく働き、持てる力を存分に発揮していった。


患者の生活環境を整えることを最優先に掲げるフローレンスの看護持論に基づいて、栄養のある食事や清潔で肌触りのよい衣類と寝具、食べやすい食事などを準備するため、彼女たちはフローレンスの指示通り不足していた枕やおまるなどの基本的な物品の補充に奔走していく。


一方のハンクとリタは、再び婦長の補佐に付き、特別授業を受けることになっていた。


  ◇


 フローレンスの言った『しつけ』は本当に厳しかった。


 と言うのも、完璧なるもの以外は失敗である、と最初に告げた彼女が二人に教え込んだものは看護だけではなく、心構えから基礎教育、果ては教養の分野にまで及んでいたからである。


どれにおいても平均以下のリタにとっては、非常に苦しい学びとなっていた。


 フローレンスの自室で行われた小一時間にも及ぶ座学会を終え、包帯の巻き方から消毒の作法、数学から哲学、ブーツでの歩き方から紅茶の入れ方までをみっちりと叩き込まれた二人は、フローレンスに連れられて坐浴室へとやって来ていた。


「看護とは、まず患者に必要なものを正しく見極めて与える事です。

的確な判断と、秩序を保って行う作業こそが、彼らの回復を高めるのです。

解りますね? 

今から行う入浴介助にも、それらはたくさん存在します」


 突然に始まったフローレンスの勉強会に、偶然居合わせた若い看護兵が呆れた口調でぽつりとこぼした。


「婦長さん、

そんなんじゃ兵士たちが甘えて戦場に戻れなくなる、

ってお医者が言ってたぜ?」


 むっとした表情のハンクとリタが彼を睨みつけるより先に、フローレンスは気さくな笑顔で彼に答える。


「心身が不健康な時は誰であれ、何かに甘えたいものです。

それを奪ってしまっては、治るものも治りません。

健康ではあるけれど、あなたもそうでしょう? 

『夜の一杯』が無くなれば、働く意欲が減るのでは?」


 その言葉に看護兵は頭をかき、参ったとばかりに退散した。


彼の後ろ姿に悪意も遺恨もないことを見てとったハンクとリタが、信じられないと言いたげな表情で顔をしかめる。


それを見ていたフローレンスが、笑顔のままで二人に言った。


「多くの男性は自分に素直なだけです。

ただ困った事に、女性を下等と見なしている。

酷い事を言っても許されると思っているのだから、

その事だけは許してやればいいのです。

そして最後に少し噛み付けば、

彼らは意外なまでにそれを受け入れてくれるものです」


 手の中で男を転がしているようなフローレンスの口調に、二人は思わず吹き出していた。


 彼女に促されて入った坐浴室では、看護婦たちが入院暦の長い患者たちを順番に沐浴させていた。


二人はその作業に参加し、ひと月以上入浴できていなかった彼らの体をフローレンスの教える順番通りに清めていく。


 湯気の立ち込めるタイル張りの大浴室で腰布一枚となった患者は、やせ細った体で椅子に座り看護婦に身を預けると、シラミ取りと垢すりをして貰っていた。


 沐浴待ちの患者にシラミ取りをしていたリタが、作業に手間取るハンクの患者を見かね、寒そうにしていた患者の背中に温かい湯を掛ける。


 しまったと思った瞬間、予想通りの注意がハンクに飛んだ。


「作業が遅いですよ、サマンサ。

手早く洗わなければ、患者の体は冷えてしまいます。

早くとも丁寧に洗いなさい」


「すみません!」


 優しい口調ではあるものの、ハンクの耳には厳しく聞こえたその声でフローレンスは次の指示を告げる。


「体を洗い終えたらしっかり拭いて、服を着せること。

そして傷口を消毒し、きちんと包帯を巻くのです」


 医師たちは沐浴と同じように、フローレンスがする創部消毒を鼻で笑っていた。


なぜなら当時の医学では、傷が化膿するのは治癒の過程だと考えられており、術後の傷は放置するものだったからである。


だがフローレンスは幼い頃から積み上げて来た独学看護の経験上、傷は清潔にした方が早く治ることを知っていた。


それに加え、海で怪我をすると治りが早いという事実も考えにいれ、独自に考案した消毒液で創部消毒を行っていたのだった。


 ハンクはフローレンスにそれらの作り方や使い方をならい、リタからは包帯の巻き方を学んでいく。


初めは手元のおぼつかなかったハンクも、何十人もの患者を沐浴させている数時間で、随分と作業を上達させていた。


心地よさそうな患者とは反対に、全身汗だくで労働作業を続けるハンクがふと顔を上げると、そこには見回りに訪れたフローレンスが立っていた。


「なかなかよ。頑張りなさい」


「はい!」


 ハンクに笑みが浮かんだところで、彼女も少しの笑顔を返した。


「婦長、資材を持った大工が到着しました!」


 廊下からかけられた看護婦の声に、フローレンスは顔を上げて返答する。


「解りました、今行きます」


 突然に今朝下された、今日以降送られて来る傷病兵は受け入れができないという医師側の決定に、フローレンスは病院内の各責任者を集めて逸早く会議を行っていた。


彼女はそこで、渋る多勢を黙らせる驚きの提案をしていた。


何と私財のみを投入し、壊れて使えなかった病院内の一角を修繕させると断言したのである。


建築材を購入して二百人のトルコ人人夫を新たに雇い大工の手伝いに充てれば、ものの数日でことは済むとまで宣言していた。


実際にこれは数日後、見事に成功して四百五十床が新たに用意できたため、受け入れ拒否の決定は先送りされたのだった。


 看護婦の労働がいくら増えようとも、フローレンスは患者の受け入れを決して拒否することはしなかったのである。


  ◇


 入浴介助を終えたハンクとリタは、フローレンスの指示を受けて医師たちから使用済みのメスなどを集めて回っていた。


「汚れてるものは全部出してください!」


「きれいにしても何も変わらんさ、まったく君らも手間だろうに」


 医師は面倒そうにぶつぶつと文句を言いながら、エプロンのポケットに手を差し入れると汚れきったメスを取り出した。


そしてフローレンスよろしく背筋を伸ばしたハンクに、渋りながらそれを手渡す。


切断手術が得意だという医師は、皆筋骨隆々であった。


それは切断という手法が、手術というよりも大工まがいの仕事だったからである。


短時間で手早く切れる医師こそが当時の軍事医師の代表格であった。


リタがこれも医療器具であるノコギリを忘れずに回収する。


 当時は手術に挑む際、医師は自身の手指や医療器具を洗わずに使い回していた。


それが術後の経過に良くないのではと考えたフローレンスが器具の煮沸消毒を敢行したのだった。


患者の衣類同様、医師の手術用エプロンも煮沸消毒するのである。


 ハンクは忙しないフローレンスに煮沸消毒を習った後、いつも通りの洗濯と掃除、そして病室の換気をして回った。


もとはオスマン帝国軍の兵舎だったこの建物はまるで倉庫のように天井が高く、窓らしい窓といったら数メートル上部で、不十分な数しかなかった。


ハンクとリタは、ほとんど天窓のような位置にある小窓を長い棒で開けていく。


院内には人の顔ほどの高さにも窓はあったが、全て小さすぎるうえに開ければ患者が寒がるため開けることができないでいた。


院内に淀む汚物臭をしっかりと逃がすため、二人は回廊を一周しながら窓を開けていく。


やっとのことで窓を開け終えたハンクが、張って痛む腕の筋肉をほぐしながら呟いた。


「換気をしても、やっぱり臭いね」


 ハンクが改めて顔を歪めると、同じく腕をほぐしていたリタは白い息を吐いて肩をすくめる。


「あたしなんかもう慣れちゃって感じないわ。

きっともう、建物全体に悪臭が染みついちゃってるのよ。

仕方ないわ」


 そこへやって来たフローレンスが、ハンクとリタを忙しく呼びつける。


「さぁもう窓は閉めて。

次は、食事を手伝うのです」


  ◇


 すっかり夜も更けた院内を巡回するハンクは、猛烈な眠気と戦いながら足を進めていた。


その危うい歩みに、並んで歩いていたリタがハンクの手からそっとランプを取り上げ、行く先を照らす。


「こんなに長い距離を、

婦長は毎晩一人で歩いていたのね……」


 フローレンスの精力的な働きのおかげで、彼女以外は夜の病院に入ってはならないという夜間看護の禁止令も解除されていた。


夜間の見回りと各患者の病状確認、そしてその記録作業は、交代制とはいえかなりの睡眠時間が削られる重労働だった。


それでも看護婦たちの口からは、労働の過酷さを訴える声が出て来ることはなかった。


 それは看護婦団員全員が、看護のできる喜びを全身で感じて作業をこなしているからに他ならず、今スクタリ兵舎病院の医療従事者たちは見事なる統制を構築し始めていた。





【フローレンスの男性観】

 フローレンス・ナイチンゲールは、生涯どの男性とも結婚しませんでした。29歳のとき、リチャード・モンクトン・ミルンズという男性から実に9回目となるプロポーズを申し込まれましたが、フローレンスはこれを断りました。彼女は結婚によって発生する「家政」や「客人のおもてなし」に振り回されることを恐れていたのです。


 女性でも社会的重要な仕事に就く事ができ、かつそれを長く続けられるという社会を望んでいたフローレンスには、自分のやりたいことを、やりたいようにやらせてくれるという男性は現れなかったようです。

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