13話 護るべき者たち
ハンクは厚みを増す衝動に突き動かされ、滲んでいた涙を拭い取った。
そして黙ったまま立ち上がると、坂道のほうへと歩き出す。
突然動きだした小さな背に力なく視線を定めたリタが、空ろな嘆きを投げ掛けた。
「人間なんてちっぽけで……、
命なんか、ろうそくみたいに吹き消されてお終いよ
……跡形もなく消える……。
大きな波の中に飲まれて、全然抗えない……」
彼女の涙声が絡み付くなか、ハンクは粘土のようなぬかるみへと交互に足を踏み出していく。
容易に足元がすくわれるこの道で、ハンクはフローレンスの姿を目で追っていた。
背筋を伸ばして乱れなく歩く彼女の後ろ姿は、美し過ぎるほどに荘厳だった。
ハンクが「自分はあれほど美しく歩けるだろうか」と自問しながら、重くなったブーツに視線を落とした。
泥でぐちゃぐちゃになったブーツを眺めるうち、いつの間にか彼の目は、あの小さくて不恰好なユーリアの帽子を探し求めていた。
「……大きな波に飲まれて……抗えない」
ハンクはリタがちっぽけだと嘆いた命を思いながら、その命たちが坂下から血生臭い大波となって、誰よりもちっぽけな自分自身を飲み込んでいくのを感じていた。
立ちすくむ彼の両脇を、波のような傷病兵たちが次々に打ち寄せ、その水位を上げていく。
ハンクは彼らを見据え、すぐにかき消されてしまうであろう弱々しい命を目に焼き付ける。
その大波は散々なほど痛ましいというのに、なぜかハンクの目には燦然ときらめく水面に映っていた。
そしてその水面は、彼の胸に重々しく詰まっていた英雄像を砕き剥がしていく。
傷病兵を運ぶトルコ人人夫が踏む泥道に目を凝らしていたハンクは、にじられたその下でうずまる黒いユーリアの帽子を発見した。
はっとして駆け寄り泥まみれの帽子を手にした途端、彼の心を飲み込んでいた大波は海底から持ち上がるほどに高くうねり、更に増した勢いで、彼をまだ見ぬ岸辺へ押し流していく。
それに抗う術など知らぬハンクは、荒々しく放り残された岸辺で立ち上がり、確かな意志を手に淀む暗闇を睨みつけていた。
「看護婦に憧れて、何が悪い」
そう言って上げられた瞳には一切の曇りはなく、口元には興奮の笑みが浮かんでいた。
ハンクは帽子を握りしめたまま勢い良く駆け戻り、玄関脇の手押しポンプを力任せに漕ぎ始める。
堰を切ったように流れ出た冷水で帽子の泥を落す彼の姿を、リタは張り出した玄関屋根の下で虚ろに眺めていた。
ハンクの白くて細い指が流水に冷え切って赤く染まる頃、黒熊の毛皮はすっかり泥を吐き出していた。
最後に水気を切り、きれいになった帽子をリタの前に差し出したハンクは白い息を切らして告げる。
「……リタ。
確かに看護は無駄かもしれない。
……だけどそれを、私たちが『無駄だった』なんて言っちゃいけなかったんだ!」
冷え切った手指と同じように、頬を真っ赤に染めあげたハンクの顔を、リタは充血した目で見上げると言った。
「だって……、ユーリアは、死んだわ……」
彼女の目を真っ直ぐに見つめたハンクが、迷いのない口調で告げる。
「ユーリアを否定しないで。
死んだことくらいで」
唖然としたままのリタの目が僅かに開き、瞳の奥で生まれた小さな驚きを垣間見せる。
「ユーリアは、死を望んでたわけじゃない。
生きようと頑張っていたんだ。
だから必死になって逃げてきた。
そんな彼を……もし敵兵じゃなかったとしても、
『どうせ死ぬから無駄なんだ』って私たちは放り捨てられる?」
「……知りあう前なら、それもできたわ」
「でもユーリアは生きのびた。
たとえ短くても、看護の先にまだ人生があったんだ!
看護がなかったら私たちの知るユーリアはいない」
凛とした表情でそう言い切ったハンクの言葉に、リタはくしゃりと顔を歪めた。
そして湧き上がる涙を隠しもせずに、口角の下がった口で呟く。
「サムぅ……、
どうして兵士はあんなに馬鹿なの……?
戦争なんかやめてさぁ、勝手気ままに逃げればいいじゃないの……。
そうすれば私たち、こんな悲しみ……知らずに済んだのに」
しゃがれ声を震わせて訴えるリタを見つめながら、ハンクは痛々しい彼女の心境を察していた。
初めて書いた手紙を握りしめ、胸を高鳴らせながら夜の病院内をすり抜けたあの日、リタはユーリアと手を取り合い、戦争の手が届かぬどこか遠くの地で二人穏やかに暮らしたかったのであろう。
その願いを断たれても尚、彼女はユーリアのことを想い笑顔で見送った。
けれどもその結果が、この突然に知らされた訃報だったのだ。
「ユーリアは……ただ兵士として、
生きたまま戦争を終えたいと願っていただけなんだと思う。
だからきっと戦地に帰ったんだよ」
ハンクが喉の奥から込み上げる悲しみを堪えて、懸命になって声を出す。
リタはその姿を見ても、絶望の渦から這い上がれないでいた。
「……だけどここにいたらあたし、
どうせユーリアのことばかり思い出すわ……、
もう悲しいのは嫌なのよ、たくさんなの。
何とかして忘れたいのに……!」
現実を否定したくて泣き顔を左右に振ったリタが、嗚咽の漏れる口を両手で押さえる。
ハンクはどんなに悲しくても、リタのいる絶望に引き込まれないでいられる自身の心境を感じていた。
戦場にいた英雄は騎士ではなかった。
だがそれならば、その英雄になら、幼い自分にも手が届く気がしたのだ。
ハンクはリタの膝に帽子を乗せると、無言のままその体をきつく抱きしめた。
「死んだ心で死ぬのと、生きた心で死ぬのは違う。
それをあの人は知っているんだ。
私はユーリアを忘れない」
その瞬間、リタの脳内ではユーリアの笑顔が鮮やかに蘇えっていた。
逞しい笑顔や、楽しく語り合った日々が電流のごとく駆け抜ける。
まだ記憶に新しい彼との出来事全てが全身を通り過ぎた後、リタの暗雲たる胸中には大きな風穴が開いていた。
その中に、ユーリアの言葉がうっすらと響く。
――この顔を、覚えておいてくれるね?
リタから体を離したハンクは顔を上げ、傷病兵を底なしに吸い込んでいくスクタリ兵舎病院の中へと視線を向けた。
その先には、看護婦たちに指示を出すフローレンスの姿がある。
彼女を見つめる表情には、初めてここへ来た時とは違う新たな決意がみなぎっていた。
ハンクは立ち上がり、フローレンスのもとへと一直線に歩き出す。
彼の唇は、誰に言うでもない声を静かに言葉としていた。
「私は、看護婦になる」
その背中を見送ったリタの隣に、院内搬入を待つタンカが降ろされた。
その傷病兵は青ざめた表情で全身を震えさせ、乾いた吐しゃ物を口元にはりつけたまま水溶便を垂れ流していた。
見るともなく彼を見つめていたリタに気が付いた傷病兵が、力ない表情に希望を浮かべながら命を乞うような瞳で彼女を見つめる。
彼の姿に、微塵も共通点のないユーリアの幻影を見たリタは、悲しさから来る動揺によって虚ろな視線を彼の胸元へとそらしていた。
泥だらけの赤い軍服の上で握られた彼の拳が何かを握りしめていることに気が付き、彼女は拳からはみ出した白い紙切れを凝視する。
それが何なのか判った瞬間、リタの胸には万感の思いが溢れ出していた。
(あたしたちと同じなのね。
この人が死んだら、これを書いた人は……)
それは、彼の家族が出兵の際に書きしたためた激励の手紙だった。
無数にいる、ただ死を待つだけの兵士。
そんな『ちっぽけな人間』にしか見えなかった彼の姿に、リタは強い愛情で繋がる幾人もの存在を感じ取っていた。
連鎖する悲しみを断ち切るためにすべきこと。
それをゆっくりと心に沁み込ませたリタは、決意して自嘲気味な表情を上げた。
そして一筋の涙をこぼしながらユーリアの帽子を握りしめると、もう片方の手で乾ききった兵士の手をそっとなで、看護婦としての笑顔で語りかけた。
「……もう大丈夫、ここは病院です。
私たちがしっかり看護をしますから、心配ありませんよ」
兵士が彼女の言葉に安堵してゆっくりとうなずいた後、リタはまとっていた毛布を兵士に掛けて立ち上がり、力強い駆け足でハンクの後を追った。
込み合う病院内の玄関では、ハンクがフローレンスを真っ直ぐに見つめていた。
数メートル先で看護の指示に忙しく動く彼女を、ハンクが意志深い声で呼び止める。
「婦長! 私が間違っていました!」
その言葉に振り向いた鋭い瞳が、見透かすようにハンクの心を貫いた。
それをしっかりと受け止めたハンクは、辺りの喧騒に負けぬよう背筋を伸ばして力強く叫ぶ。
「私は、あなたのもとで学びたいのです!
婦長の目指す『看護』を、
患者の心に寄り添う看護を、私に教えてください!」
芯のある表情でハンクの隣に並んだリタを、フローレンスの厳しい瞳が問いただした。
リタはいつも通り蓮っ葉な笑みを見せると、落ち着きはらった軽い口調で発言する。
「帰りたいなんて嘘。
あたしもここに残ります。
婦長は気に入らないだろうけど、
あたしは売春婦でいるより、立派な看護婦になりたいのよね。
……看護婦が逃げたら悲しむ人が増えるだけ。
婦長、あたしにも看護を教えてください」
リタの胸中で燃えさかっている熱意が偽りではないと確信したフローレンスは、厳とした足取りで二人の前へと歩み寄った。
「進歩し続けない限りは、後退している事と同じである。
この言葉の意味が判りますか」
冷酷な空気を醸す目線で見定められた二人が、強い決意のこもった表情でゆっくりと頷いて返答をする。
それを確認したフローレンスは、ふっと口角を上げて実に優美な笑顔を見せると、柔らかく寛大な口調で言葉を放った。
「私のしつけは厳しいですよ」
歓喜の表情を見合わせるハンクとリタに、フローレンスは早々と看護計画の指示を与えてその場を去っていく。
彼女の孤高とも言える後ろ姿を、先ほどの記者が目を輝かせて見つめていた。
「あの人が……、
フローレンス・ナイチンゲール……!」
彼は帽子を脱ぐと、神々しいものを見送るような視線でフローレンスの姿を見つめ続けていた。
【フローレンスの信念2】
フローレンスは、右手にはペンが生えていたのではないかと思うほど沢山の文章を書きました。その猛烈さと言ったら他に類を見ないほどで、特に手紙はとてつもない数であったとか。
その要因の一つとして上げられるのが、病院で死亡した兵士の家族に向けた丁寧な『最後の手紙』を書いていたことです。
兵士がどんな病状で、病床どんなことを語り、どう死去していったのかこれらを細かく記しながら、彼らを賞賛し敬意の言葉を記したフローレンスの手紙は、数万人の遺族の心を優しく癒したそうです。




