12話 虚しさ
フローレンスと入れ替わるようにして現れたシスター・バーサの手によって介抱された二人は、看護の邪魔にならない玄関の外階段へと導かれていた。
石の階段に座っても一向に離れようとしないリタの体を、ハンクは亡霊のような面持ちで見つめ、シスター・エリザベスがまとわせてくれた毛布にくるまっていた。
どのくらいの時が経ったのか。
階段に座り続けていたリタは隣に座るハンクを抱きしめたまま、前を行く数十人の傷病兵を虚ろな瞳に映す。
リタが気抜けしたまま、泣き腫らした目と力なく諦めきった声で呟いた。
「……看護なんて無駄なのにね……。
どっちにしろ、結局みんな死ぬ。
助けたって、
助けなくたって、
同じ」
座ってから幾度となく繰り返されて来たその文言にハンクは耳を塞ぐこともできないまま、看護兵が運び出す白布の掛かったタンカを見つめていた。
病院の裏手へと曲がっていった彼らの行く先を思い、眉間に深い皺を刻んだハンクがぽつりと言葉を落とした。
「英雄がいれば、弱きは助かった?」
無意識の問いは、もう「全ての目的と希望を失ってしまった」と言っているように胸中へと響いた。
親を振り切り、家を飛び出してまで、探し求めた『英雄』。
だが自分ががむしゃらに起こした行動は、そんなものなどどこにもいないということを証明しただけの惨めな旅だった。
空しくもそれが分かった今、垂れたハンクの脳裏には「帰りたい」と訴えたリタの声が木枯らしのように去来した。
(――あぁ。
俺ももう、イギリスに帰ればいいんだ……)
ハンクは息を吸い、そうリタに告げようと顔を上げた。
唇も、舌も、その言葉の形を作って待っている。
絶望から逃れる決断を、声に出すのは容易いはずだった。
しかし、ハンクの瞳には傷病兵で溢れた玄関を駆け回る看護婦団員と、その先で一際凛然と意志強く行動する黒衣の女が映っていた。
フローレンスを始め、看護婦団員たちは搬入された患者を力強く励ましながら一心不乱に処置をしている。
ハンクはそれがどれほど無駄で無意味な行為かと傍観していた。
けれども彼の心には、フローレンスの最後の言葉が突き刺さっていた。
『――あなたたちは、彼らを見殺しにしたいと言うのですね』
彼女の声と共に、タンカで運び込まれたユーリアの姿が浮かび上がって来る。
(もしあの時兄さんと見間違ってなかったら、
俺はユーリアを見殺しにしていたはずだ……)
ぎしり、と心に生じた感情は、ハンクの脳内を駆け巡った。
凛としたフローレンスの声は、尚ハンクを追い立てる。
『傷付いた人間を無視するくらいなら――、私の人生は無駄でかまいません』
ユーリアの笑顔や話し声、力強い体つきが、掴むこともできないほど素早く、目に焼き付くほど鮮やかに蘇る。
(看護の先にユーリアの短い人生があったから俺たちは――)
ハンクは沸々と胸をかき乱す熱に唇を噛みしめ、膝に乗った掌を力強く握りしめる。
そして、見つめていた光景にはっとして、強く息を飲んだ。
フローレンスに手を取られた傷病兵が、地面に横たわったまま最期の時を迎えていたのだ。
息を引き取ってしまった男の顔を、優しい笑顔のフローレンスは強い意志を漂わせたグレーの瞳でしっかりと見届けている。
彼女はどんな時であっても臨終の際にある患者を一人にはさせず、まるで彼らの母親や恋人になり代わったかのように付き添うのだった。
彼女は彼らの死を尊び、礼節に満ちた態度で丁寧に看取っていた。
そこに、一切の泣き言など、存在してはいなかった。
そこにあったのは、命に対する『義』そのもの。
傷付き死んでいく者を、誰一人見捨てはしない。
それが、彼女の看護であった。
自身が疲労困憊しているにも関わらず、患者へは常に笑顔を向け続ける。
「クリミアの天使」と称された彼女の勇姿は、ハンクの思い描く英雄になぜか酷似していた。
ハンクは、この戦場で大きな勝利を収める選ばれし英雄が、シン・レッド・ラインで名高い第九十三高地連隊や、無謀にもロシア陣地に正面突撃した軽騎兵旅団などの男性軍人たちではなく、今そこにいる『英国陸軍病院の女性看護要員の総監督であるフローレンス・ナイチンゲール』その人なのだと、感じ取っていた。
ハンクの目に映るフローレンスは、黒衣の裾を剛毅という名の泥はねで汚し、愛と尊厳に満ちた凛然さで存在していた。
強くそして美しすぎる彼女の姿は、今後どんなに勇ましい男が現れようとも、揺るぐことのない『永遠なる騎士』の姿となって心に刻まれていた。
【フローレンスの信念】
フローレンス・ナイチンゲールは、毎日何十人と死んでゆく傷病兵をほとんどと言っていいくらい看取りました。もちろん死の瞬間に立ち会うことのできなかった患者もいましたが、その場合は死体安置所に足を運んで彼らの顔を目に焼き付けていたと言います。