11話 命は、戦場に散った
ユーリアが去って十三日が経った十二月二八日。
柔らかい陽光が降り注ぐ午後に、スクタリ兵舎病院の前では一人の上流階級風な中年男性が何かを待ってうろついていた。
スリムでこざっぱりとしたキャメル色のスリーピース・スーツをまとった彼は、ショートボックスベアード・スタイルに整えた焦茶色の頬ひげをさすりながら玄関先に立っていた。
体と同じく細めであろう顔の下半分をもっさりと覆うそのひげも、彼が上流階級の人間であることを雄弁に語っている。
初めに用を言いつけた看護兵がなかなか帰らないことに痺れを切らした彼は、通り掛かった看護婦を呼び止め、ずれた肩掛けカバンを背負い直しながら遠慮深げに言った。
「あの、私は新聞社の者です。
リタという名の看護婦に会いたいのですが」
白い吐息に包まれた看護婦はきょとんとしながらも、威圧感の欠片もない三十半ばの男に向かって簡潔に答える。
「あたしに、何か?」
「……あなたが、リタ・ヒン……」
男は被っていたモスグリーンのハンチング帽を少し上げ、ほっとした表情でリタの姿を見つめた。
きらめく海を背景にした記者の姿に目を細めたリタが、後からやって来たハンクの足音が隣で立ち止まったことを感じながら、このあまりに無害そうな中年男性を眺めていた。
洗濯済みのシーツを抱えたハンクが状況の説明を求めてリタを見やるが、彼女はそこはかとなく湧き上がる重苦しい胸騒ぎでハンクに視線を移せないでいた。
唇を一舐めした男が、リタを見つめたまま、おもむろに話し始める。
「僕は戦場の実態を知りたくて、
三日前までクリミアの前線を取材していたのですが……、
そこで出会ったロシア人の兵士が、
これを……あなたに渡して欲しいと……」
彼はそう言いながら肩から下げたカバンを開け、中から薄汚れた黒い帽子を取り出した。
リタの手にゆっくりと渡されたそれは、確かに間違いなく彼女が作ったあの不恰好な帽子であった。
「――!!」
濡れたように艶めく黒い毛皮を茶色い泥と乾いた血にまみれさせたユーリアの帽子が、目を見開いたリタの全身を強く震撼させた。
わなわなと眉を震わせて帽子に食い入るリタの姿を目の当たりにしたハンクは、物も言えないまま問うような視線を男に向ける。
男は、思慮深い声色で言葉を続けた。
「戦場は……、ひどい有様でした。
激戦が通り過ぎた草原には敵味方もなく、
動けなくなった何百という兵士たちが、
見渡す限り累々と横たわっていました……。
死体ばかりに見えた塹壕で息をしていたのが、その青年でした。
彼は、軍服の懐から大事そうに帽子を取り出すと、
かろうじて腕をあげ、
あなたに心からの感謝を伝えて欲しいと願いました」
男の低く深い声を聞くうちに、掌中の帽子から目が離せないリタの顔は、青白く血の気が引いてしまっていた。
浅く、速くなろうとする呼吸をおさえようと力をこめた彼女の体が、小さかった震えを全身に広げさせていく。
「……そして、
彼は僕がこれを受け取るのを待っていたかのように、
……息を引き取りました」
ハンクが瞬きもなく記者を見上げ、一瞬で乾ききった喉の奥からうわごとのような声を響かせる。
「ユーリアが……、死ん、だ…………?」
脳内で拒否し続けていたその言葉を聞いた瞬間、
リタは、切り裂くような叫びをあげた。
「……いぃやぁぁぁあああーーーーーーーーーっ!!」
喉から口内をびりびりと走りぬけた悲鳴が、彼女の骨格を震えさせる。
それは、九歳の彼女が全てを奪い取られた時に出した悲鳴と同じものだった。
二度と出すことはないと思っていた声に身を引き裂かれながら、リタは感情に任せて駆け出していた。
「リタ!」
ハンクがシーツを放り投げ、その後を追う。
痛いくらいに鼓動する心臓と全身を脈打つ血液の暴走を制御できないまま、リタは急なぬかるみ坂を叫びながら駆け下りた。
溢れる涙で視界を奪われた彼女は、悪路に足をとられて抗うことなく泥中に崩れ落ちる。
四肢をついて咽び泣くリタが、怒りをはらんだ悲しみで右腕を上げると、握りしめていた帽子を道の先へとかなぐり捨てた。
「私たち、何のために彼の傷を治したの!?
生きてて欲しかったからでしょう!?
だけどユーリアは死んだ!
死んだのよ!
もういや、こんな思いをするくらいなら、あたし、あたし――……」
泣き喚きながら泥の地面を叩いていたリタが、次第に声を詰まらせ嘆きに満ちた嗚咽を漏らす。
駆け寄ったハンクが目の前で膝をつくと、彼女は
「帰りたい」
と訴えて、その体に抱きついた。
ハンクを毎日励ましてくれていた、強く優しい姉のようなリタ。
彼女からは今、その様相を見つけることはできなかった。
激しくしゃくりあげるリタの悲愴な鳴き声は、抱きしめられたハンクの体に直接流れ込むように伝わってくる。
それは、彼女を慰めようとしていたハンクの意思を打ち砕き、彼の顔をも崩れさせるほどに切であった。
「リタ……」
どうしようもない無力感で一杯の声を絞り出したハンクの横を、小さな船で運ばれて来た傷病兵たちがまばらに通り過ぎていく。
坂を上ってくる患者たちを迎えようと病院内から現れたフローレンスが、坂の途中でおきている異変に気が付き、事情を知るであろう見慣れない男に状況の説明を求めていた。
フローレンスは病院の玄関からしばらく二人を見下ろしていたが、看護兵の足音が聞こえ始めた頃には、しっかりとした足取りで彼らのもとへと下り、規律正しい口調で指示を出す。
「数十人の患者がやって来ます。
二人とも、自分の仕事に戻りなさい」
威厳をもって響いたフローレンスの声に、リタは子供のごとく首だけ振り、ハンクを抱く腕に一層の力を込めた。
しくしくと泣き続けるリタから顔を上げたハンクが、せめて自分だけは泣くまいと声を震わせる。
「ユーリアが……死んだんです。
婦長、ここでの看護なんて、いったい何の意味があるんですか?
どんなに頑張って看護しても、
毎日何十人もの患者が弱って死んでいく、
もし治ったとしても戦場に戻るのならば、そこで死ぬ。
……兵士なんか……
兵士なんか、治しても無駄なんでしょう!?」
緊迫した表情を軋ませて不安と恐れにとりつかれた眼球をフローレンスに向けたハンクが、今自分の横を行く傷病兵のほとんどが死体となって病院を出て行くに違いないはずだと、物言わぬ視線で意見した。
その予想は、病院で働く者ならば身に沁みて解る事実だった。
スクタリ兵舎病院を悪夢のような状況に陥れた根源である『深刻な物資不足』を解消し、看護体制をも改善できた現在であっても、この病院は恐ろしいほどに患者たちの命を飲み込んでいた。
いつだったか修道女の一人が
「有能すぎる死神が、病院の上に腰をすえている」
と言って神に祈ったほど、大半の患者は回復の兆しを見せることなく衰弱の果てに死んでいった。
文字通り、本当に何をしても無駄、それがなぜなのか誰にも理解できなかったのである。
絶望のこもった口元を引きつらせて見上げて来るハンクを、フローレンスは歴然と見据えて静かな声音を紡ぎだした。
「なるほど。
あなたたちは、彼らを見殺しにしたいと言うのですね」
普段と変わらぬはずのフローレンスの声が、鋭い刃のようにハンクの体を突き抜けた。
それはあまりに冷たく、傷口の体温すらも吸い取るような、凍てつく氷の刃であった。
取り返しのつかない状況に直面して困惑するハンクを、フローレンスは剛毅の燃える鷲の目で射抜き、芯の通った威圧感で押さえつけると言葉を続けた。
「傷付いた人間を無視するくらいなら――、
私の人生は無駄でかまいません」
そう言い放ったフローレンスの背筋は、他者を責めあげるように伸びていた。
身動きの取れなくなったハンクをその場に残し、フローレンスは足早に院内へと戻っていく。
凛としたフローレンスの細い背中を力なく見つめたハンクは、焦土のような胸中でぼんやりと悟っていた。
(帰りたければ帰れ――、と言われたのだ)
『婦長の補佐』に就いた一週間で痛感したフローレンスの身を削るような働きは、患者の間のみならず今や新聞を通して祖国イギリスでも「天使」と称えられていた。
その天使の翼は、ユーリアを兄と見間違い助けを乞うたハンクの思いを容赦し、敵兵の命すら救済してくれたはずだった。
(もう俺たちは、突き放されたんだ……)
ハンクは初めて、己の慢心に気付かされていた。
クリミアの天使は自分の味方であり、常に擁護してくれるはずだ、という驕りにも。
ユーリアの名を叫び一層の大声で泣き始めたリタの悲しみを、ハンクは抱き合わさった体で共有した。
そして、ただ力なく開いた目で冷え澄みきったスクタリの空を見つめていた。
【看護婦と兵士の恋】
クリミア戦争だけが特にそうだったとは限らないのですが、戦場ではしばしば恋が生まれるようです。戦場でいつ消えるとも知れない死の恐怖に震える男たちはその安らぎを看護婦に求め、看護婦もまたその安らぎを受け入れる場合がありました。
意気投合してしまった二人は燃え上がるまま結婚し、任務を忘れて国に帰るのが常でした。そんなこともあり、戦時中は常に看護婦が不足していたようです。




